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村内 伸弘(むらうち のぶひろ)村内伸弘の彼女

白土湖畔のカトリック島原教会(島原半島殉教者記念聖堂)で静かに祈りました

教えたことではなく、ー途に生きたことだけが人の心にとどきます。信仰とはそうして伝わっていくのです。この大きな苦しみは神への愛のために。「アルメイダは、今も、人間の尊厳と真の幸せのために生涯をささげて生きる人々の道標です。」

カトリック島原教会(島原半島殉教者記念聖堂)のルルドのマリア像


この息子は死んでいたのに生き返った ルカ15・11~32


イエス、十字架の上で息をひきとる
令和2年(2020年) 7月21日 村内伸弘撮影



白土湖(しらちこ)の目の前に教会がありました。


せっかくなのでお祈りしていきます。


カトリック島原教会 長崎県島原市白土町


島原半島 殉教者記念聖堂と書かれていました


神が造られた物はみな良い物で 感謝して受けるとき 捨てるべき物は 何一つありません
互いに愛し合いなさい


島原半島殉教者記念聖堂ご案内

この聖堂は、1612年〜1658年の間に、島原半島一帯で殉教した数万人にもおよぶキリスト教信者を記念し、祈りの家として建てられたものです。戦乱の時代の中で、神を信じ、その教えに従って生き、そして神と人のためにいのちまでも捧げた人を殉教者と呼びます。神の御前に生きる人間の一途さと、尊さ、善良さを最高に証明した人たちです。

かつて、島原半島はそのような殉教者たちを、数多くはぐくんだ土地でした。今日、大切なものの順番を見失い、深い混迷の時代を生きる私たちに、かれらは何を問いかけているのでしょうか。

神と殉教者たちに耳を傾け、静かにお祈りのひと時をお過ごし下さい。

カトリック島原教会


わたしたちのすることは 大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません でもその一滴の水が集まって 大海となるのです マザー・テレサ


福者・内堀兄弟殉教者の像


福者・内堀兄弟殉教者(1627. 2. 21)


福者・内堀兄弟殉教者

Blesseds Uchibori Brothers Martyrs

(1627. 2. 21)


この地が美しいのは移りゆく四季の鮮やかさのためではありません。慎ましく尊厳に満ちた人生を歩んだ人たちのことを、この地が記憶しているからです。


1563年、アルメイダとロレンソ了斎によって蒔かれた福音の種は、この地で確実に成長していきました。しかし 1613年、有馬川での 8人の殉教を境に島原半島の教会は大きな転換則を迎えます。翌年、藩主有馬直純の日向転封に際し、キリシタン家臣の多くは武士を捨て、農民として留まり信仰に生きました。子どもたちはそのぶれることのない親たちの背中を見て育ちます。その時から残りの者たちに寄り添って生きた潜伏の牧者中浦ジュリアンの信仰が、半島の教会の霊性となりました。


領主松倉重政が島原城内に入牢させていたキリシタン 16人に、拷間をもって棄教を迫ったのは 1627年2月21日のこと。その中に島原地区の世話役バウロ内堀作右衛門の 3人の息子がいました。バルタザルと 18歳のアントニオ、そして、5歳のイグナチオ。兄たち同様手の指を切り落とされた 5歳のイグナチオは、「まるで赤いバラの花を神に捧げるように」小さな腕を目の前にそっとかざしました。その後 16人は裸にされ真冬の有明海に沈められます。「お父さん、こんな大きな恵みを神に感謝しましょう。」これは二男アントニオが海の中から父に告げた信仰告白として記録されています。父作右衛門もその一週間後雲仙岳で殉教しました。


生きているときも、死んだ後も父に倣う子どもたちがいました。父もその子どもたちに支えられて父となりました。教えたことではなく、ー途に生きたことだけが人の心にとどきます。信仰とはそうして伝わっていくのです。

2008年11月24日、内堀 3兄弟と父作右衛円は福者の列に加えられました。


2011年2月21日

内堀兄弟殉教384年目の記念日に


制作/本田利光 鋳造/菓子満


「ー途に生きたことだけが人の心にとどきます。」心に響く言葉です。。。



中浦ジュリアンの像


中浦ジュリアン(1568 - 1633)


中浦ジュリアン

Nakaura Julian

(1568-1633)


中浦ジュリアンは 1568年長崎の西海町中浦に生まれました。1580年、創設された有馬のセミナリヨ(小神学校)の一期生として入学。2年後、伊藤マンショ、千々石ミゲル、原マルチノと共に天正少年使節としてローマへ派道され、8年後の 1590年活版印刷機を携え帰国。翌年、豊臣秀吉に謁見しヨーロッパ文化を紹介しています。


帰国後、司祭になるため天草とマカオのコレジヨ(大神学校)で学び、1608年、同期生マンショ、マルチノと共にセルケイラ司教によって長崎で司祭に叙階されています。41歳でした。


1614年、徳川幕府のキリシタン禁令によって多数の殉教者が出たロ之津教会に赴任、そこを基点に毎年、天草、八代、柳川、小倉の教会を巡回。厳しい弾圧のなか潜伏しながら信者を励まし、自らも衰弱した身を何度も奮い立たせ、ついには島原半島の最後の牧者として歩きつづけました。


1632年小倉で捕縛。翌1633年10月18日、長崎西坂の丘にて穴吊りの刑で殉教。亡骸は灰にされ長崎港内に投棄されました。64歳でした。


ローマに行った 4人の使節の中で、一番凡庸で素朴な少年を、神は混迷の時代に真理の道案内者に選ばれました。西坂の殉教の丘に引き出されたとき "私はローマへ行った中浦神父です"と、自ら名乗ります。なぜ私はこの道を選び、そして命をかけたのか、あの挨拶はジュリアンの人生の答えでした。かれが担った使節の使命は、殉教によってまっとうされました。


"この大きな苦しみは神への愛のために"

(ジュリアン最降の言葉)


2000年12月13日 大聖年・教会献堂 3周年

島原カトリック数会


制作/本田利光 鋳造/淵製作所



ルイス・デ・アルメイダの像


ルイス・デ・アルメイダ(1527 - 1583)


ルイス・デ・アルメイダ

Luis de Almeida

(1527 - 1583)


アルメイダは 1527年ポルトガル・リスボンに生まれました。医学を学び買易商として 1552年に来日。イエズス会宣教師の影響で同会に入会します。その後大分に総合病院を開設、また後のミゼリコルディアの組へと発展する若者の福祉活動グループを組織します。1561年から西洋医学を携えた宣教師として、博多、平戸、鹿児島、横瀬浦、島原、関西、五島、天草へと宣数。80年、マカオで司祭に叙階されます。そして1583年、天草河内浦で貧しい信徒たちの祈りと涙の中にその使命を終えます。56歳でした。


アルメイダを通して島原半島にキリストの教えが伝えられたのは、1563年のことです。一カ月足らずで 250人が洗礼を受け、間もなくして、口之津と島原に教会が建てられました。その後アルメイダの九州一円での宣教活動は口之津教会が基点になっています。


行く先々で貧しく悲修な人々の隣人となり、共に泣き、共に立ち上がって歩むアルメイダの生きざまは、キリストのあわれみの福音そのものでした。理屈や美辞麗句ではなく、身をかがめて黙々と仕えるアルメイダのなかに、貧しく素朴な人たちは神のいつくしみを見たのです。


誕生したばかりの日本の教会を育み、骨折した時代を癒したアルメイダは、今も、人間の尊厳と真の幸せのために生涯をささげて生きる人々の道標です。


"かれがこんなにも大きな愛情と熱意に満ちた活動を続けたで、この国では、けっしてかれのことは忘れられることはないであろう"

(L.フロイス「日本史」より)


2000年12月13日 大聖年・教会献堂 3周年

島原カトリック教会


制作/本田利光 鋳造/菓子満



共に泣き、共に立ち上がって


アルメイダ神父のような生き方、憧れですね!
"慈悲屋" ミゼリコルディアのルーツもアルメイダ神父だったんですね。すばらしいです!!



島原教会の中のルルドのマリア像


聖母の出現のシーン  (左)聖女ベルナデッタ (右)聖母マリア


聖女ベルナデッタ・スビルー


聖母マリア


借りているレンタサイクルと眉山とルルドのマリア像。絵になります!


悲しむ人々は幸いである その人たちは慰められる


イエス はじめて倒れる


イエス ふたたび倒れる


イエス 三度倒れる


イエス十字架につけられる


イエス・キリスト


イエス 十字架の上で息をひきとる


イエス・キリスト



福者 イグナチオ内堀


福者 マグダレナ林田



「殉」日本廿六聖人殉教四百周年


後後ろから見た島原教会


この息子は死んでいたのに生き返った ルカ15・11~32


鐘楼・大聖年記念碑


彼はその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで人々は今日でも「主の山に、備えあり」と言っている。-創世記22.14-15-


鮮やかなピンク色の花と緑色の葉っぱ



僕は、ここ島原半島で人間の一途さと、尊さ、善良さを最高に証明した人たちに心からの祈りを捧げました。



戦争がもたらすもの(教皇フランシスコ)


戦争がもたらすもの

教皇フランシスコ


亡くなった弟を背負い、

焼き場で順番を待つ少年。

この写真は、アメリカ占領軍のカメラマン

ジョセフ・ロジャー・オダネル氏が

原爆後の長崎で撮影したものです。

この少年は、血がにじむほど唇を噛み締めて、

やり場のない悲しみをあらわしています。


何度でも載せます。青空と眉山がうつくしい島原。


感動を胸にカトリック島原教会を後にします。



合資会社 山崎本店酒造場


たたみ屋さん


東京美容室


島原の背負った歴史の重さを僕は知りました。島原教会をぜひあなたも訪れて祈ってみて下さい。



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動画制作: 村内伸弘(ムラウチドットコム)



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