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国立ハンセン病資料館(東京都東村山市全生園内) - 隔てなく命輝くその日まで

国立ハンセン病資料館の感想

国立ハンセン病資料館(東京都東村山市全生園内) 「母娘遍路像」

国立ハンセン病資料館(東京都東村山市全生園内) 「母娘遍路像」
「母娘遍路像」の娘さんが泣いていました。娘さんの目から涙の粒がこぼれ落ちていました。撮影後、僕は涙を拭いてあげました。



西武バス バス停「ハンセン病資料館」

西武バス バス停「ハンセン病資料館」
僕は新秋津駅からだったので、このバス停では降りられませんでしたが、清瀬駅南口や久米川駅北口からだと、資料館の目の前のこのバス停で降車可能です。


バス停「ハンセン病資料館」

国立ハンセン病資料館

国立ハンセン病資料館
開館時間:午後9時30分~午後4時30分(入館は午後4時まで)
休館日:毎週月曜日(月曜が祝日の場合は、翌日が休館)
年末年始・国民の祝日の翌日・館内整理日
(図書室は毎月第3木曜日も休室)
入館料:無料


国立ハンセン病資料館 / National Hansen's Disease Museum


National Hansens Disease Museum

歌碑


母娘遍路像 - 母娘遍路像建立委員会

母娘遍路像


母娘遍路像


ハンセン病回復者の中には、入院前に四国遍路を経験した人が少なくありません。病気を知られず、迫害から家族を守るためには、遍路にならざるを得なかったからです。


わずかな路銀を懐に遍路となった病者は、遍路を持て成す<お接待>にその日その日の糧を求め、礼所から礼所への旅を続けました。


世界に例を見ないこの悲しい風習は、社会的には偏見・差別がいかに人を、非人間的境遇に追いやるものであるか、を示すものでありますが、宗教的には、たとえどんなに肉体がむしばまれ、差別・偏見の下におかれた人であっても、人としての尊厳に変わりはなく、皆救いといって捨てぬ、という弘法大師の広大無辺なご誓願(ちかい)の、今に生きる証なのです。


平成2年、わが国のハンセン病者が辿った苦難の人生を、歴史の事実として世に遺すため、多磨全生園大師講を中心に「母娘遍路像建立委員会」を結成、同5年11月全国の人々から寄せられた善意をもとに、この母娘遍路像は建立されました。


空を見上げる二人は、いつか必ず訪れるハンセン病の治る時代の到来を、母娘が共にわが家で暮らせる時代の到来を、じっと目を凝らして見つめているのです。


平成9年4月吉日


制作「母娘遍路像建立委員会」

代表 三輪照峰 吉田竹蔵

彫刻 古川武治

題字 滝沢輝雄


偏見・差別

偏見・差別
偏見(へんけん)と差別(さべつ)。たった漢字2文字づつの計4文字のことばなんですが、重いです。。。自分は誰かに偏見を持ち、誰かを差別していないだろうか?このことばの前で僕は自問自答しました。


「母娘遍路像」建立碑

「母娘遍路像」建立碑


「母娘遍路像」建立碑


野の花を摘みて子遍路おくれけり(宗子)


お遍路は信仰の旅であると同時に、職を奪われ、故郷を追われた人々の生活(たつき)を支える旅でもあった。

江戸時代以来、ハンセン病者の多くが、遍路となって四国へ渡った。四国には、お遍路を温かく持て成す<お接待>の風習があり、病者達は、これに残る命の糧を求めたのである。

しかし、不自由な躰に八十八ヶの札所の旅は遙けく遠い。あるいは遭難により、あるいは病の進昴により、道半ばに斃れた遍路も少なくなかった。遍路墓には、今もそうした人々の悲しい歴史が埋もれている。

平成2年、わが国のハンセン病者が辿った苦難の人生を、歴史の事実として世に遺すため、多磨全生園大師講を中心に、「母娘(ははこ)遍路像建立委員会」を結成、同5年11月、全国の人々から寄せられた善意をもとに、この「母娘遍路像」は建立された。


安んじて親族(うから)と暮らせるその日まで、

隔てなく命輝くその日まで、

母娘遍路の旅は果てない。


平成5年11月吉日


母娘遍路像建立委員会



隔てなく命輝くその日まで!
"隔て(へだて)" ということばに僕はハッとしました。人を "隔てて"はいけないんだ。"隔て"とはまさに、偏見や差別なんだと思いました。"等しく(平等)"、"偏りなく(公平)" 人に接しようと僕は思いました。コレがなかなか難しいんですが。。。(^^;


遍路墓

遍路墓


親族(うから)・命輝く

親族(うから)・命輝く


命輝く!


Do not fear death so much, but rather the inadequate life.
死はそれほど恐れることではない、むしろ不十分な生き方を恐れなさい。


僕のこのブログの一番下にも明記しているのですが、不十分な生き方(命輝かない人生)を過ごす人がほとんどです。死は平等、公平に 1人1回づつ巡ってきますが、命を輝かすことができるか、できないかは平等ではなく、公平でもありません。ハンセン病患者のみなさんが、この母や娘さんが、もし命を輝かすことができなかったんだとすればそれは悲しい歴史です。



最初に書きましたが、娘さん泣いてました。こぼれ落ちた涙でこの娘さんは僕に何を訴えたかったんでしょうか?


国立ハンセン病資料館は無料です。「母娘遍路像」の母と娘とお別れして、館内に入りました。そして、この過去の特別展の資料も無料でした。すべて無料です!ハンセン病患者や回復者への国からの配慮が感じられてすばらしいです!!


一遍聖絵・極楽寺絵図にみるハンセン病患者 ~中世前期の患者への眼差しと処遇~


一遍 1239生~1289没

「平等」の思想を持ち、その思想に基づいて行動した一遍上人


一遍
1239生~1289没


一遍は、時衆と呼ばれる人びとを率いて生涯にわたり諸国遊行を続けました。念仏を記した札を配り(賦算/ふさん)、札を受けとった者を往生させようと集団で踊りながら念仏を唱え(踊り念仏)、男女の別や浄不浄、さらには身心の有無さえ問わず、念仏を唱えれば万人が救われると説き、人々を極楽浄土へ導こうとしました。


一定の本拠地や寺院に依存しない諸国遊行、和歌や和讃(歌謡)による分かりやすい強化、そして念仏勧進は、仏教を広く庶民のものとする原動力となりました。


世俗権力と関係を結ぶことなく生涯を「捨聖(すてひじり)」として終えた一遍は、忍性とは異なって「非人」や病人に直接的な救済事業を行ったわけではありません。この点は大きく違うのかもしれません。


しかしながら、宗教的理念に裏付けられた、一遍の「癩者」「乞食」をも排除しないという「平等」の思想は、一遍の生涯について知らしめるための宗教画である「一遍聖絵」「一遍上人縁起絵」に、そうした人々があえて描きこまれているところ、その「眼差し」から知ることができるように思うのです。


「一遍聖絵」の中の「癩者」、「乞食」

「一遍聖絵」の中の白布で顔を覆われている「癩者(ハンセン病患者)」、「乞食」。顔を覆う白布、柿色の服が癩者を示しています。


国立ハンセン病資料館 2013年度春季企画展  一遍聖絵・極楽寺絵図にみるハンセン病患者 ~中世前期の患者への眼差しと処遇~

国立ハンセン病資料館 2013年度春季企画展
一遍聖絵・極楽寺絵図にみるハンセン病患者 ~中世前期の患者への眼差しと処遇~



ハンセン病回復者の語り部・平沢保治さんの衝撃的な一言

館内に入ってすぐ 1Fに映像ホールがあったので、入ってみると先ほどバス停近くで出会った東久留米市立第七小学校の社会科見学が行われていました。特に何も言われなかったのでそのまま僕もホールの椅子に座って、一緒に社会科見学に参加させてもらっちゃいました(笑)


ハンセン病語り部・平沢保治さん

平沢 保治 (ひらさわ やすじ)さん

1927年生まれ。

国立ハンセン病資料館運営委員。

14歳の時、多磨全生園に入所。

多磨全生園入所者自治会 前会長。


国立ハンセン病資料館ホームページより引用)


ビデオが流れた後に、なんとハンセン病回復者の平沢保治(ひらさわ やすじ)さんが語り部として登壇され、小学6年生のみんなに語り始めました。僕は生まれて初めてハンセン病にかかったことがある人の話を生で聴くチャンスに恵まれたので引き続きそのまま座って平沢さんの講演を一緒に聴かせていただきました。平沢さんの両手は 2本の指を除いて、固まってしまって動いていませんでした。



平沢さんは小学生達に語りました。

  • 病気(ハンセン病)よりも親や兄弟への差別がつらかった。
  • 全生園は病院といっても刑務所。生まれた家にも帰れない、肉親にも会えなかった。一箇所に集め、社会と遮断して死んでもらう。ということ。煙突の灰となり、骨になっても家に帰してもらえなかった。
  • 当時、東村山には一軒も家がなかった
  • 療養所(全生園)の中に牢屋があった。お墓があり、火葬場があり、お寺があった。毎日泣いていた。
  • 全生園では今 199人の大多数が生まれたときの名前を名乗っていない
  • 人間が生きているところには必ず宝物がある。
  • 癩病(らい病)は悪い人間がなる病気だ、神様や仏様から罰を与えられた人たちがなるんだ(と言われた)。
  • できないことを人の力を借りることは恥ずかしいことではない。相談できるのが人間。
  • つらいことを他人の力を借りて乗り越えれば人間は強くなれる。
  • 全生園では死んだときに葬式をするために、宗教に入れられる
  • 人間は悪いところもあるかもしれないけど、良いところも沢山ある。争うのではなく、どうしたら仲良くできるのか?
  • どんな人でも仲良くしなければならない
  • ハンセン病患者は子供を産み育ててはいけない(と言われた)
  • 子供もいない、孫も、ひ孫もいない。女房もいない。
  • 命を粗末にしてはいけない、命は一人一人が持っている宝物。人間には長所も短所もあるけど、長所も短所も宝物なんだ。
  • 自分はハンセン病になっても、世界中で一番幸せな人間だと思っています。
  • 我々が死んだら日本からハンセン病はいなくなる
  • 全生園は人がいなくなり、建物を壊している。地域の人に色々差別されたけど、感謝のしるしとして緑の森を残していこう。「人権の森」です。
  • 両親からいただいた命、命ある限り人間らしく生きようと思う
  • 全生園の3つの宝。土地・緑・命
  • 夢を持ってください、どんなことでもいい
  • 人間は一人では生きていけない、色々な人の力で生きている
  • ありがとうと言える七小の生徒になってください
  • この世の中に、地上に選ばれて人間としてたった一つの一回だけの命。どんなことがあっても粗末にしないでください。絶対に命は粗末にしない。



すばらしい講演でした!平沢さんの講演、本当にすばらしかったです!!


このあと平沢さんへの質問タイムがあって、東久留米七小の児童達から質問がありました。



平沢さんは小学生達の質問に答えました。


児童「療養所の中で楽しかったことは何ですか?」
平沢「肉親が会いに来てくれたこと。それから らい予防法がなくなり、みんなが会いにきてくれることだよ。」


児童「家族のお墓参りは行きましたか?」
平沢「行きました。隠れて。(お寺に来るなと言われているので)」


児童「次にしたいことは何ですか?」
平沢「世界の国々にハンセン病の資料館を作りたいです。我々が自分たちで作りたい。」


そしてこのあと、最後の質問とそれに対する平沢さんの答えを聞いて、僕は心底感動しましたし、自分はとてもその境地にはなれないと思いました。僕らがいた平成27年11月18日、全生園の映像ホールでこんなやりとりがあったんです。


質問者はグレーのパーカーを来た長い黒髪の小学校6年生の少女でした。


児童「平沢さんの一番の宝物は何ですか?」
平沢「あなたたち、あんた宝物。


泣きました!
僕は泣きました!!
ハンセン病に罹り、終生隔離され、子供もいない、孫もいない、ひ孫もいない、奥さんもいない平沢さんの答えに心打たれました(涙)


児童「平沢さん、子供が大好きですね!」
平沢「ハイ」


質問した女の子はどんな答えが戻ってくると思っていたのでしょうか?
"あなたが私(平沢さん)の宝物、僕の宝物はあんた" と言われるとはまさか思ってもみなかったのではないでしょうか?また、今日初めて会った、そして今後二度と会わ(え)ないかもしれない見ず知らずの女の子のことを"自分の宝物"だと瞬時に、間髪入れず答えた平沢さんの思想に衝撃を受けました。


宝物は肉親や家族、せいぜい友達。自分の健康や命。写真やお金。皆さん全員そんな感じじゃないでしょうか?僕もそんなもんです。目の前にいる他人を"自分の宝物"だと思える平沢さんの優しさは素晴らしいと思います。平沢さんは我らの前にそびえ立っています。目の前にいる一人の人間(ホモ・サピエンス)を "自分の宝物"だと断言できる人間に僕もいつの日にかなりたいです。でも、その道のりは超険しいはずです。。。


最後に質問をした児童が舞台に進み、"ダイアナ妃と握手した手(平沢さんの手)"を順番に握りしめました。



国立ハンセン病資料館とは?

国立ハンセン病資料館は、1993(平成5年)に開館しました。ハンセン病患者・回復者が生き抜いてきた証を残し、わたしたちの社会に同じ過ちがくりかえされないことを願って、回復者が自ら設立し、活動してきた博物館です。この館を通じて、病気がその人の姿かたちをどのように変えようとも、人は誰でも、侵すことのできない永久の権利をもっていること、人は誰でも、人をうやまい、いつくしむ心をもっていること、そして「私は人を尊び、思いやる心をもっているだろうか」とご自身の心に問いかけていただければと願っております。


常設展示のご案内
常設展示は、
展示室1「歴史展示」
展示室2「癩療養所」
展示室3「生き抜いた証」
の順番になっています。展示室1ではハンセン病の歴史についてご覧いただき、
展示室2・3では患者・回復者が
人として生きてきた姿を
感じとっていただければ幸いです。


展示室1

「歴史展示」
「歴史展示」
日本のハンセン病をめぐる歴史を、政策を中心に概観できます。


展示室2

「癩療養所」
治療薬ができる前の時代を中心に、療養所の中の患者がいかに過酷な状況下で生活していたのかを展示しています。


展示室3

「生き抜いた証」
過酷な状況にあってなお、
生きる意味を求め、また生き抜いてきた
患者・回復者の姿を展示しています。
また、患者・回復者と共に生きていくために、
皆様に知っていただきたいことについても
展示しています。


企画展示室

1年に2~3回、異なる企画をたてて展示を行っています。


証言コーナー

ハンセン病回復者を中心とした方々の証言映像を視聴できます。


図書室

ハンセン病関連の図書資料を閲覧できます。


当館の展示は、
一度ですべてを見終わることはむずかしいかもしれません。
何度もくりかえし、心にとまったところを中心に
ご覧いただければと思います。


※「癩」、「らい」という言葉は、過去様々な偏見を伴って用いられ、患者およびその家族の方々の尊厳を傷つけてきたこと等をふまえ、現在は「ハンセン病」が用いられておりますが、当館では差別の実態を知っていただくために、歴史的用語として使用しております。


ハンセン病とは

ハンセン病はらい菌による経過の慢性な感染症です。感染しても発症するとは限らず、今では発症自体がまれです。また万が一発症しても、急激に症状が進むことはありません。初期症状は、皮疹と知覚麻痺です。治療薬がない時代には変形を起こすことや、治っても重い後遺症を残すことがありました。そのため、主に外見が大きな理由となって社会から嫌われてきました。現在では有効な治療薬が開発され、早期発見と早期治療により後遺症を残さずに治るようになりました。

(国立ハンセン病資料館リーフレットより)


ハンセン病は日本にも古くからあり、さまざまなかたちの差別が続いてきました。国がハンセン病への対策を始めたのは 1907(明治40)年の法律制定からでしたが、治療よりも患者を療養所に隔離することを主とした内容でした。
療養所に入れられた患者は外出を禁止されていました。労働にも従事しなければならず、外出したり職員に従わなかったりすると処罰されました。患者同士の結婚は認められていましたが、子どもを持つことは許されませんでした。
国はやがて、すべての患者を一生療養所に閉じこめておく絶対隔離へと方針を強化しました。地域ごとに患者を見つけ出して療養所へ送る社会運動も展開されました。
第二次世界大戦後、治療薬が登場しても、国は積極的に患者を社会に戻そうとせず、社会も患者を受け入れないままでした。患者は療養所にしか居場所がない、実質的な隔離状態に置かれ続けました。そのため患者は療養所の中を暮らしやすくしようと長年努めて来ました。
1996(平成8)年ようやく法律が廃止になり、2001(平成13)年には国の対策の誤りを認める判決が出るなど、近年ハンセン病回復者をめぐる状況は大きく変わりました。しかしその一方で、回復者の老齢化と人数の減少が進んでいます。
今や入所者にとって生活と医療は療養所にしかなくなり、社会復帰者は無理解や偏見に曝されることのない医療を療養所に期待しています。そのため療養所の存続を可能にする方法と、回復者・家族・社会の結びつきの再生が、大きな課題になっています。

(国立ハンセン病資料館リーフレットより)



次に、2Fの常設展示を見ました。


ハンセン病は千数百年に渡ってさまざまなかたちの差別が続いていた(る)病気だそうです。そして現在の全生園の入居者は無理解や偏見にさらされることなく生活と医療を維持でき、生きた証を残す場所として療養所(全生園)が存続することを望んでいるそうです。高齢、後遺症による身体障害、身寄りのなさ、社会の受け入れ体制の不備などが原因で社会復帰できなかった入居者は"終の棲家"として療養所で人生を終える覚悟をしているそうです。


ハンセン病は、以前、癩(らい)と呼ばれていました。「業病(ごうびょう)」、「不治の病」「かったい」「なりんぼう」「どす」などの俗称で呼ばれていたそうです。キリスト教では「清められるべき病」。 イスラム教では「不治の病」。 仏教では「仏罰による病」とされたそうです。「けがれた病」、「家筋、血筋が原因の病」そんなことまで言われたそうです。そして、患者たちは罪深い業(ごう)を負った者として社会の底辺におかれ続けたそうです。。。。


戦時中も、兵士や母体としての強い体を求める戦時下で、患者はいっそう必要のない存在とされていったそうです。。。


現在では考えられないことですが、つい最近までハンセン病の患者さんや回復者の皆さんがこのような偏見を持たれ、激しく差別されていたことを思うと本当に悲しい気持ちになります。そして、怒りを覚えます。戦争の過ちもそうですが、この過ちを二度と繰り返さないことが人類にとって大切だと思います。この資料館の目的のように、僕は僕たちの社会に同じ過ちが繰り返されないように心から願っています。


非常に充実した展示内容で、本格的に見る場合は 1日あっても足りないぐらいだと思います。ハンセン病患者のために生涯を捧げた人たちのことも展示してあり、感動に打ち震えます。「我深く汝等を敬う」と言って救癩事業(ハンセン病患者の救済)に奔走した僧侶・綱脇龍妙(龍妙上人/つなわき りゅうみょう)の一生なんかはキラキラキラキラと光り輝いているように思えました。そして、僕が一番感銘を受けたのは"前近代の救済活動"のブースに書かれたいた次のことばです。


「社会の底辺におかれる中で、機会は少なくとも、人間として扱われることが、患者にとってどれほど救いになっただろう。」




それから常設展を見終わって、最後に企画展を見ました。「2015年度秋季企画展」として、「私立ハンセン病療養所 待労院たいろういんの歩み ―創立から閉院までの115年―」が開かれていました。


待労院(たいろういん)とは?

熊本市島崎の一角に、115年にわたり存続した、カトリック系の私立ハンセン病療養所がありました。2013年1月、入所者の減少により静かに幕を閉じた待労院(たいろういん)です。近代日本におけるハンセン病療養所は、宗教者による救療事業に端を発しています。1898年創立の待労院もその一つで、日本有数のハンセン病患者の集住地であった本妙寺周辺における、「パリ外国宣教会」の司祭 J.M.コールと、「マリアの宣教者フランシスコ修道会」の 5人の修道女による施療活動がその起こりです。
1901年、本妙寺にほど近い琵琶崎の丘に、ハンセン病患者の療養施設である待労院が建設されます。やがてこの地には親を失った子どもや路傍に棄てられた高齢者などの困窮する人びとも集まり、修道女たちとともに信仰に基づく共同生活を送る「聖母ヶ丘」が形成されました。待労院はその中で、名称や機能を変えながら、ハンセン病患者・回復者の生活の場であり続けました。
当館ではこれまで主として国公立のハンセン病療養所に焦点を当ててきましたが、この度の待労院の閉鎖を機に、その創立から閉院までの歩みを展示いたします。国公立療養所とは異なる形成過程とそこでの療養生活の一面をご覧いただき、ハンセン病療養所の歴史への理解をより深めていただければと考えています。また「聖母ヶ丘」の始まりとなった待労院という存在を通して、近代以降の日本における宗教と社会事業との関わりについてお考えいただくきっかけともなれば幸いです

(「私立ハンセン病療養所 待労院の歩み」パンフレットより)


待労院の名称は、新約聖書の中の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という一節に由来するそうです。待労院の修道女たちは入所者との関わりを通して、人間について、信仰について多くのことを学んだそうです。



▼関連サイト: ハンセン病


キッズコーナー(小学校中学年~中学生向け)
1. 江戸時代まで
2. 療養所のはじまり-1 ―キリスト教や仏教の療養所―
3. 療養所のはじまり-2 ―国と県の療養所―
4. 療養所のしくみ
5. 強制的な隔離
6. 治る薬の登場と患者さんたちの活動
7. らい予防法の廃止と裁判
8. 病気が治ったのにどうして療養所に住んでいるの?
9. 今の療養所


「ハンセン病の向こう側」
厚生労働省 - ハンセン病を正しく理解するための中学生向けパンフレット


キミは知っているかい? ハンセン病のこと。(pdfファイル)


公益財団法人 日本科学技術振興財団 手と手をつないで(pdfファイル)
島根県健康福祉部健康推進課


ハンセン病を知っていますか
香川県健康福祉部薬務感染症対策課



大西笑子さんからのお話(一部略)


私が6歳の時のことです。夜、突然トラックがやってきて、警察の人たちが私の父を連れていってしまいました。父は、ハンセン病でした。その時母がさけぶように言った「罪人じゃありません。」という言葉は、今でも忘れることはできません。


「らい予防法」がなくなって、この島にもたくさんの小学生や中学生が来てくれるようになりました。みんな私のこの手をにぎって握手してくれます。人間が自由に行ったり来たりできるって、なんてすばらしいことなんだろうと思います。来てくれた子どもたちに、必ず言うんですよ。「ハンセン病にかかった人だけじゃないよ。だれも差別しちゃいけないよ。」と。


~川柳~
この手にも握手をくれる子に出会う 笑子


熊本地裁判決の日に原告が勝訴の感動を綴った詩


太陽は輝いた

90年、長い長い暗闇の中

一筋の光が走った

鮮烈となって

硬い巌を砕き

光が走った

私はうつむかないでいい

みんなと光の中を

胸を張って歩ける

もう私はうつむかないでいい

太陽は輝いた


(「ハンセン病の向こう側」より引用)


ハンセン病問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総理大臣(小泉首相)談話

平成13年5月25日


去る5月11日の熊本地方裁判所におけるハンセン病国家賠償請求訴訟について、私は、ハンセン病対策の歴史と、患者・元患者の皆さんが強いられてきた幾多の苦痛と苦難に思いを致し、極めて異例の判断ではありますが、敢えて控訴を行わない旨の決定をいたしました。


今回の判断にあたって、私は、内閣総理大臣として、また現代に生きる一人の人間として、長い歴史の中で患者・元患者の皆さんが経験してきた様々な苦しみにどのように応えていくことができるのか、名誉回復をどのようにして実現できるのか、真剣に考えてまいりました。


わが国においてかつて採られたハンセン病患者に対する施設入所政策が、多くの患者の人権に対する大きな制限、制約となったこと、また、一般社会において極めて厳しい偏見、差別が存在してきた事実を深刻に受け止め、患者・元患者が強いられてきた苦痛と苦難に対し、政府として深く反省し、率直にお詫びを申し上げるとともに、多くの苦しみと無念の中で亡くなられた方々に哀悼の念を捧げるものです。


今回の判決は、ハンセン病問題の重要性を改めて国民に明らかにし、その解決を促した点において高く評価できるものですが、他方で本判決には、国会議員の立法活動に関する判断や民法の解釈など、国政の基本的なあり方にかかわるいくつかの重大な法律上の問題点があり、本来であれば、政府としては、控訴の手続きを採り、これらの問題点について上級審の判断を仰ぐこととせざるを得ないところです。


しかしながら、ハンセン病訴訟は、本件以外にも東京・岡山など多数の訴訟が提起されています。また、全国には数千人に及ぶ訴訟を提起していない患者・元患者の方々もおられます。さらに患者・元患者の方々は既に高齢になっておられます。
 こういったことを総合的に考え、ハンセン病問題については、できる限り早期に、そして全面的な解決を図ることが、今最も必要なことであると判断するに至りました。


このようなことから、政府としては、本判決の法律上の問題点について政府の立場を明らかにする政府声明を発表し、本判決についての控訴は行わず、本件原告の方々のみならず、また各地の訴訟への参加・不参加を問わず、全国の患者・元患者の方々全員を対象とした、以下のような統一的な対応を行うことにより、ハンセン病問題の早期かつ全面的な解決を図ることといたしました。


(1) 今回の判決の認容額を基準として、訴訟への参加・不参加を問わず、全国の患者・元患者全員を対象とした新たな補償を立法措置により講じることとし、このための検討を早急に開始する。


(2) 名誉回復及び福祉増進のために可能な限りの措置を講ずる。具体的には、患者・元患者から要望のある退所者給与金(年金)の創設、ハンセン病資料館の充実、名誉回復のための啓発事業などの施策の実現について早急に検討を進める。


(3) 患者・元患者の抱えている様々な問題について話し合い、問題の解決を図るための患者・元患者と厚生労働省との間の協議の場を設ける。
 らい予防法が廃止されて五年が経過していますが、過去の歴史は消えるものではありません。また、患者・元患者の方々の失われた時間も取り戻すことができるものではありませんが、政府としては、ハンセン病問題の解決に向けて全力を尽くす決意であることを、ここで改めて表明いたします。
 同時にハンセン病問題を解決していくためには、政府の取組はもとより、国民一人一人がこの問題を真剣に受け止め、過去の歴史に目を向け、将来に向けて努力をしていくことが必要です。
 私は、今回の判決を契機に、ハンセン病問題に関する国民の理解が一層深まることを切に希望いたします。


厚生労働省ホームページより)



▼関連施設
重監房資料館(群馬県吾妻郡草津町)


▼関連サイト


輝く JR八王子駅南口のイルミネーション

輝く JR八王子駅南口のイルミネーション


八王子駅南口のイルミネーション

八王子駅のイルミネーション


この八王子駅南口のイルミネーションを見ながら、僕は「差別や偏見はどんな人に対しても絶対に持ってはいけない。まずは自分だけでも差別や偏見と訣別しよう」と決意をしました。



"人権の森" 国立ハンセン病療養所 「多磨全生園(東京都東村山市)」




国立ハンセン病資料館の感想記事 - 村内伸弘さん渾身の記事


一遍聖絵・極楽寺絵図にみるハンセン病患者 ~中世前期の患者への眼差しと処遇~




ディープな京都・崇仁地区: 柳原銀行記念資料館と金網フェンスに囲まれた無数の空き地


大阪人権博物館(リバティおおさか)は様々な差別を学べるすばらしい人権学習施設 



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