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村内 伸弘(むらうち のぶひろ)村内伸弘の彼女

東京・内神田散歩 - 日本橋川、神田橋、太田圓三君像

お江戸日本橋の下を流れる日本橋川を神田橋から撮りました。太田圓三顕彰碑にも感動!

初冬の日本橋川(東京都千代田区)

日本橋川(東京都千代田区)

神田橋近くを流れる日本橋川(にほんばしがわ)
平成30年(2018年) 12月4日 村内伸弘撮影



神田橋(東京都千代田区)

神田橋
平成30年(2018年) 12月4日 村内伸弘撮影


太田圓三君像

関東大震災の復興に献身的努力を献げた太田圓三(太田円三)
平成30年(2018年) 12月4日 村内伸弘撮影




日本橋川なんてあまり名前を聞かないですよね。。。東京のど真ん中を流れている川なんで存在感は本来高いはずなんです。でも、ほんと目立たない川でした。日本橋の下を流れている川と言えば、みんな「ああ、あの川ね」って言いそうですがw


将軍様が暮らす江戸城を囲むお堀だったんですよ、昔は!


仕方がない!僕がブログで付近の風景とともに大々的にアピールしちゃいます 笑



神田橋の交差点から見えた経団連会館(写真中央左)


手前には首都高速都心環状線が走っています。この都心環状線の下を流れているのが日本橋川(にほんばしがわ)なのです。


経団連会館

経団連会館(写真左)


経団連会館

経団連会館(写真右)


内神田一丁目

いちょうが黄色く染まっていました。


千代田区町名由来板 内神田一丁目

千代田区町名由来板 内神田一丁目

千代田区町名由来板 内神田一丁目


江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用しました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。


神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道(おなりみち/将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。


明治5年(1872年)いったん美土代町(みとしろちょう)となりますが、空き地の状態は第二次世界大戦後まで続きました。そして昭和41年(1966年)、内神田一丁目に編入されました。昭和58年(1983年)、神田橋土木詰所の敷地となっていたこの場所に、内神田住宅が完成すると 90世帯が住むようになり、平成5年(1993年)、千代田区のもっとも新しい町会として、内神田住宅町会が誕生しました。さらに平成16年(2004年)、町会名は神田橋町会と変わりました。


神田橋町会


明治30年頃の神田橋付近(レオ マカラズヤ蔵)

明治30年頃の神田橋付近(レオ マカラズヤ蔵)


レオ マカラズヤって?誰?
って思ってネットで調べたら


レオ マカラズヤ株式会社

神田神保町の老舗かばん店。リモワや吉田カバン等をはじめ、旅行、ビジネスバックを中心に多種多様な鞄をお取り扱いしております。


だって~
1906年創業らしいです!!



物揚場跡(東京都千代田区)

物揚場跡
日本橋川水運の物揚場標石ここに出土す
往時をしのぶよすがとして後世に伝える
昭和58年3月 千代田区


荷揚げ場がここにあったなんてなんだか江戸の息吹を感じますねっ!


「内神田一丁目」界隈 安政3年/1856年

「内神田一丁目」界隈 安政3年/1856年


お江戸~!
やっぱり、「東京」って「江戸」だったんですね!この頃にタイムスリップしてこの界隈を歩いてみたーーい!!


改めて、東京が江戸と呼ばれていた時代があったということをこういう看板を見ると実感できます。


神田橋交差点

初冬の内神田の空

初冬の内神田の空


1964年(昭和39年)7月 首都高速道路公団建造 施工 鹿島建設株式会社

なにやら古いプレートがあります


1964年(昭和39年)7月 首都高速道路公団建造 施工 鹿島建設株式会社

1964年(昭和39年)7月 首都高速道路公団建造
施工 鹿島建設株式会社


昭和39年の東京オリンピックを前に、オリンピックに間に合わせる形で首都高は作られたようです!これまた日本の高度成長期の躍動を感じることができるプレートでした(^^)


首都高速都心環状線

首都高速都心環状線


千代田区 - 路上喫煙禁止、路上駐輪禁止

千代田区は路上喫煙禁止、路上駐輪禁止みたいです。


神田橋交差点

横断歩道で向こう側に渡ってみます


神田橋交差点のいちょう

12月4日、いちょうはまだ真っ黄色のままです。ちょっとづつ落ち始めているようです。


いちょうの木(神田橋交差点)

いちょうの根元(神田橋交差点)


内神田の桜の木

手前は桜の木。奥は経団連会館(写真左)


冬に咲く桜の木(内神田)

桜の花が咲いてました~!


冬桜?不断桜?寒桜?子福桜?十月桜?
何でもいいけど、やっぱり桜には春咲いてもらいたいものですネ
季節感が狂います 笑


金銅鎚起 豊展観守像

ここにはなにやら得体の知れない生きものが鎮座する金ぴかの像がありました!


金銅鎚起 豊展観守像 山下恒雄作

金銅鎚起 豊展観守像 山下恒雄作


金銅鎚起 豊展観守像

金銅鎚起 豊展観守像

この彫刻は、活気とやすらぎ・教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり「彫刻のある町・千代田区」として潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した写真集、神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。


平成3年9月 千代田区


金銅鎚起 豊展観守像

こがね虫と人間の擬人化!金銅鎚起 豊展観守像


芸術なので評価はそれぞれの人に任せます


首都高神田橋出入口

首都高神田橋出入口



おっ、またまた何か記念碑があった!


太田圓三顕彰碑

なんの記念碑だろう!?


太田圓三君像(太田園三君像)

太田圓三君像(太田円三君像)


太田圓三(おおた えんぞう/太田円三)って知らない。。。


太田圓三顕彰碑

太田圓三君像(太田円三君像)


大正12年(1923年)関東大震災の直後、氏は選ばれて帝都復興院土木局長に任ぜられ、復興事業の根幹で然も極めて難事業であった区画整理、およびこれに基く土木工事の計画遂行に直面して、献身的努力をなすこと二年余、事業の基礎漸く成った大正15年(1926年)春、心身疲労の極、事業の犠牲として、惜しくもその生命を絶ったのであります。


昭和6年(1931年)復興事業の完成に当り、先輩知友相寄り、氏の功績を偲び、記念としてこの彫像を、深川相生橋畔の中島公園に建立したのでありますが、太平洋戦争の災禍により損傷せられましたので、昭和30年(1955年)春それを修復の上、この地に移設したのであります。


昭和30年(1955年) 6月


太田圓三さんっていうのは僕は初めてその名を知りました。関東大震災の復興に献身的努力を献げた名もなき日本人がこうやって顕彰されているのはすばらしいと思います!また、こういう生き方をまぶしく感じます。そして自分自身を恥ずかしく思います。


何年か前に、熊野古道を歩いたときもこんな碑があったことを思い出しました。

寝食を忘れ誠意を込めて熱心にがんばった新宮藩士・河野藏人

熊野古道 - 新宮藩士・河野藏人

河野翁彰徳碑(新宮藩士・河野藏人)

河野翁彰徳碑

河野藏人翁旧新宮藩士也慶應年間歎我郷之荒廢請干藩主策開墾鑿池溝便拂郷之灌漑穿塹壕防野獸之狼藉又鋤磽确(石に角/確)拓桑圃百姓賴其利焉當其従事也誠意熱心殆忘寝食竟能成其志矣尓来五十年於此田園月拓戸口歳増以※(至に支/致)有今日者實翁之賜也乃郷民胥謀建碑記功表彰其徳於永遠云


"河野藏人"でも"河野蔵人"でも Googleで検索結果がでてこなかったので、たぶんこの碑文の紹介は僕が初めてだと思います。明治の前、1865年から 1868年までの慶應時代に寝食を忘れ誠意を込めて熱心に郷(さと)のためにがんばった新宮藩士・河野藏人じいさんの徳を讃える内容です。いつの時代にも、どこの場所にも、こういう偉人はいるものです。郷の民衆がみんなで相談してこの碑を建てて、功を記した模様です。熊野古道を歩いた甲斐がありました。上皇や法皇の御幸(ごこう)の跡をたどるのもいいですが、この藏人じいさんのような義人と出会えたことが嬉しいです。


それから僕のひいおじいちゃん・村内栄一が書いた看板のことも思い出しました。

寒風炎熱休日を忘るること二ヶ年五箇月 社長 村内栄一

木の看板の裏面 - 昭和二十年八月二日の戦災にて全焼し以来寒風炎熱休日を忘るること二ヶ年五箇月茲(ここ)にその復興工事もほぼ終り事務所の竣工するに際して 昭和二十二年十二月 社長 村内栄一

昭和二十年八月二日の戦災にて全焼し以来寒風炎熱休日を忘るる古(こ)と二ヶ年五箇月茲(ここ)にその復興工事もほぼ終り事務所の竣工するに際して

昭和二十二年十二月 社長 村内栄一


僕のひいおじいちゃんが書いた字です!昭和20年(1945年)8月2日の八王子空襲で醤油工場や店が丸焼けになってから再建に取り組み、事務所開きする時の気持ちを書き付けたもののようです!!裏面はまったく汚れていませんでした。


こういうの見ると、自分ももっともっと働かなくちゃいけないなあと強く感じます。ひいおじいちゃんは戦災から 2年5ヶ月休まないで働き続けたようです!


太田圓三

太田圓三さん


太田圓三(おおた えんぞう/太田円三)

太田圓三(おおた えんぞう/太田円三)


鉄道始まって以来の天才技術者

太田圓三は木下杢太郎(本名・太田正雄)の実兄です。杢太郎より四歳年上で、明治14(1881)年に現在の伊東市湯川で生れました。


圓三は、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、逓信省鉄道作業局(後の鉄道省)に入局し、長く鉄道技術者として活躍していました。その業績は、鉄道橋の標準設計を策定するなど土木技術のみならず、路線選定にあたって図上選定法を普及させたり、工事の機械化を推進したり、工事請負制度を改正したりと多岐に渡ります。工務局工事課長時代には丹那トンネル工事の管理や上越線清水トンネル工事も担当し、「鉄道始まって以来の天才技術者」と評されました。


近代都市・東京の設計者

大正12(1923)年、関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京を復興するため、帝都復興院が設置されると、その手腕を買われた圓三は、土木局長に抜擢されました。(復興院は後に内務省復興局となり、圓三は引続き土木部長として復興にあたりました)


圓三はここでもその才能を発揮し、多くの功績を残しました。


第一に、道路の拡張・新設と、それにともなう土地区画整理を推進したことです。当時はまだ馬車が主流でしたが、圓三は車社会の到来を見越してこれを断行しました。現在、東京の幹線道路となっている昭和通りや靖国通りなどはこの計画でできた道路です。


第二に、隅田川六橋をはじめ震災で焼失・崩落した 100以上の橋の設計に尽力しました。その際、圓三は都市の美観にも配慮し、広く芸術家にも意見を求めたといいます。なお、隅田川に架かる永代橋・清洲橋は現在、国の重要文化財に指定されています。


第三に、高速鉄道(地下鉄)の必要性を説き、鉄道網の具体的な計画化に携わりました。復興事業では予算の都合上、地下鉄の敷設まではできなかったのですが、圓三はその必要性を重視し、私案を作成して内務省公告にまでこぎつけました。


圓三はまさしく、近代都市・東京の礎を築いたのです。


帝都復興事業に心血を注いだ圓三でしたが、大正15(1926)年、志なかばにして自ら命を絶ちました。区画整理に対する無理解や、復興局疑獄事件の発覚による心労のためでした。


多くの人々に惜しまれ、45歳の若さでこの世を去った圓三。しかし、その業績は現在も東京に生き続けています。


伊東市ホームページより引用


偉人です。そして義人です。

太田 圓三(おおた えんぞう)

太田 圓三(おおた えんぞう)、あなたもこの名前をぜひ覚えてあげて下さい。


太田圓三君像

太田圓三君像


斜め後から見た太田圓三君顕彰碑

斜め後から見た太田圓三君顕彰碑


2007年に見学した東京両国・震災復興記念館 (関東大震災)

東京両国・震災復興記念館(関東大震災)

東京両国・震災復興記念館(関東大震災)




日本橋川

太田圓三さんの顕彰碑のすぐうしろ側を日本橋川が流れていました。首都高環状線が完全に川の上を塞いでいるためその存在はそうしても暗いです。


神田橋

見て下さい!神田橋の真上を高速道路が進んでいきます。ちょっと前に小泉首相が日本橋の上の高速をどかす的なことをぶち上げたことがあったと思いますが、確かにこの高速道路がなければその景観はステキだと思いますねー


神田橋


ただ、首都高速が日本経済に寄与している度合いを考えるとこの形も仕方がないようにも思えますけどね。。。



と、その時!


日本橋川が僕・村内伸弘に予想外のステキな表情を見せてくれました!!

日本橋川

うつくしい!日本橋川うつくしい!!首都高環状線に覆われてしまっているけど光の当たり具合によっては美しい!!!!


きらめく日本橋川

きらめく日本橋川


輝く日本橋川

輝く日本橋川


日本橋川

テント生活者 - 内神田の日本橋川

この川のたもとにはテント生活をしている方もいらっしゃるようでした。


内神田の日本橋川

一人になりたいような人がスマホを見ていたり、煙草がやめられないサラリーマンたちがプカプカプカプカ煙草をふかしています。


神田橋公園

どうやらここは神田橋公園というようです。


神田橋公園内の千代田区防災倉庫

神田橋公園にあった千代田区防災倉庫。モダンな作りですね!


千代田区 レンタサイクル(コミュニティサイクル)

レンタサイクル(コミュニティサイクル)がありました


千代田区のレンタサイクル(コミュニティサイクル)

千代田区コミュニティサイクル実証実験(神田橋公園) ちょくる

千代田区コミュニティサイクル実証実験(神田橋公園) ちょくる


神田橋門跡

神田橋門跡(Remains of Kandabashi-mon Gate)


ここは、芝崎ロ門・神田ロ門・大炊殿橋門(おおいどのばしもん)とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺に参詣に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした。門は、1629年(寛永6年)に下野真岡藩(現在の栃木県)藩主稲葉正勝によって構築されました。対岸の鎌倉河岸は江戸城築城の資材を荷揚げする河岸場だったので、この門の役割は重要でした。


1873年(明治6年)に櫓門が撤去され、1884年(明治17年)に木橋が架け直されました。道路の拡張と市電の開通に伴い改修され、関東大震災で焼け落ちた後に新たに架橋されました。現在の橋は 1980年(昭和55年)に改架されたもので、木橋風の意匠に、灯籠風の親柱、石造風の高欄を組み合わせています。


神田橋門「旧江戸城写真帖」 1871年(明治4年)撮影

神田橋門「旧江戸城写真帖」 1871年(明治4年)撮影


神田橋

神田橋 結構人が行き来しています


かんだばし(神田橋)

かんだばし(神田橋)


神田橋の上

今度は神田橋の上から再び日本橋川を眺めてみましょう。この道は日比谷通り。


神田橋から見た日本橋川

やっぱりキレイです。


神田橋から見た日本橋川

とってもキレイです。


神田橋から見た日本橋川

江戸時代、ここがどんな感じだったかを想像するとより楽しいです。人間は想像できる生き物だからイマジネーションの世界を楽しみましょう♪♪


神田橋の欄干

神田橋の欄干


神田橋の欄干から見えた日本橋川

こんな風に見ても風流です。


神田橋を渡るビジネスマン

内神田あたりを歩いている人は仕事に忙しくって川を眺める余裕はなさそうですけどねw
僕は忙しくないんで眺めてます 笑


神田橋

神田橋渡りきりました。


日本橋川の真上を通る首都高速都心環状線

ホント川の真上を高速道路が通ってます。見事ですね(苦笑)


首都高速都心環状線・神田橋出入口

首都高速都心環状線・神田橋出入口


神田橋出入口

この神田橋出入口、たぶん何度か使ったことあると思います。


首都高入口

首都高入口


あっ!ここにもあった~!!

1964年(昭和39年)2月 首都高速道路公団建造 施工 三井建設株式会社(現三井住友建設)

1964年(昭和39年)2月 首都高速道路公団建造
施工 三井建設株式会社(現三井住友建設)


ここにも昭和39年の東京オリンピックに間に合わせる形で作られた首都高のプレートがありました。反対側は鹿島建設でしたが、こっちは三井建設でした。1社じゃなくって、日本中の建設会社が手分けして突貫でやってたんじゃないでしょうか!オールジャパンの精神がうつくしいです!!ああ、戦後ニッポン!!!!!


神田橋出入口

神田橋出入口から見た首都高都心環状線

神田橋の交差点からここまでわずか百数十メートルです。日比谷通り沿いに歩いてこれだけたくさん見所がありますよ。ブラタモリのように東京は面白いです!


それでは経団連会館に向かいます。


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