水戸学の道 光圀ルート1 水戸黄門助さん格さん像と水戸黄門神社(義公生誕の地)
水戸肛門 ← 誤変換に注意!? 間違えると "平和時の英雄"水戸藩主徳川光圀公に叱られちゃいますよ~(笑)
黄門さま!JR水戸駅前の水戸黄門像
令和元年(2019年) 9月30日 村内伸弘撮影
午後3時45分、秋の JR水戸駅前です
空がとってもキレイです!
JR水戸駅北口の外観
僕はこれから水戸駅をスタートし水戸市内の「水戸学の道 光圀(義公)ルート」を散歩します
緑色の点線が水戸学の道になります
水戸駅前にあった水戸学の道の案内板
水戸学の道
これまで、弘道館・水戸城跡周辺地区の道路愛称は、「三の丸歴史ロード」と「水戸城跡通り」の 2つがありました。明治維新150年を迎えることを機に、より多くの方に水戸の歴史に触れ、親しんでいただくため、この 2つの通りを含めた水戸駅からのルートを、新たな道路愛称「水戸学の道」として設定しました。
また、たくさんの人に訪れ、歩いて楽しんでいただけるように、案内板の設置を進めているほか、散策マップも作成していきます。
「水戸学の道」周辺を散策しながら、水戸の先人や歴史などに思いを巡らせてみませんか。
水戸市ホームページより引用
ハイ!それでは水戸市のご要望通り、水戸の先人や歴史に思いを巡らせながら水戸学の道を歩いてみます。
水戸学の道めぐり、スタート~☆
水戸駅前を歩いて出発しました
水戸黄門助さん格さん像
いきなり水戸黄門の銅像がありました!
なんと助さんと格さんも一緒に銅像になっちゃってます
控え居ろう この紋所が目に入らぬか~! 笑
水戸黄門と助さん格さん
水戸黄門で知られる水戸光圀は江戸幕府を開いた徳川家康の孫にあたり御三家水戸藩の第二代藩主である。藩政では人間尊重の立場に立ち、常に庶民に対する思いやりの心を忘れず、また大日本史の編纂や文化財の保護に意を用いるなど大胆で文化行政によって平和時の英雄とも評された。 明治以後光圀を主役とする諸国漫遊記の類が創作されたのはこうした光圀の心を汲みとったものであろう。
黄門というのは、昔朝廷から任命された中納言のことである。その中納言は他に何人もいるのに水戸黄門といえば光圀を指すようになったのはそれだけ光圀が天下に有名だったからである。
お供の助さん格さんは佐々介三郎、安積覚兵衛がそのモデルといわれ共に大日本史編纂に尽力した学者である。三人がそろって旅をしたことはないが、光圀の命で介三郎らが資料収集のため全国を旅しているのでそれが漫遊物語に発展したのであろう。
この度、水戸駅北口再開発事業を記念して光圀誕生の地に隣接する水戸駅前にこの像を建立するものである。中央が水戸黄門、左が助さん、右が格さんをイメージしている。
制作 小森邦夫 撰文 瀬谷義彦 題字 北條蘭徑
平成5年(1993年)2月建立 水戸市
黄門=水戸藩主 水戸光圀
助さん=学者 佐々介三郎
格さん=学習 安積覚兵衛
こういうことみたいです。
水戸黄門が水戸光圀だというのは知ってましたが、助さん格さんが大日本史の編纂に力を尽くした学者だったとは!初めて知りました(^^)
黄門さまのふるさと 水戸
義公生誕の地(黄門神社)
義公とは水戸黄門、徳川光圀公のことです。
写真左側が水戸駅
水戸学の道
水戸学は、水戸藩主徳川光圀公による「大日本史」編纂が始まりとされる。江戸時代後期には、徳川斉昭(なりあき)公らが、天皇のもと国全体で諸外国に立ち向かう「尊王攘夷」論を示した。藩を超えて国家的視野から様々な課題に対応する理念が、明治維新や近代日本の形成に大きな役割を果たしました。
すぐに義公生誕の地という看板がありました
黄門さまのミニ銅像がここにも建ってます!
水戸黄門づくし~♪♪
銅像の台座に説明文がありました
徳川光圀公(義公)は、寛文元年(1661年)に34歳で第二代水戸藩主となり、笠原水道の敷設、寺社の移転と整理、家臣の共同墓地の設置、和紙の専売実施など多くの改革に取り組み、藩内外から名君と仰がれた。
さらに、巨船「快風丸」を建造するなど、いち早く未来を見据えてもいた。また、史記にならって「大日本史」の編纂に努め、近世日本の文化に影響を与えた。元禄4年(1691年)、藩主を譲り常陸太田市の西山荘に隠居し、73歳で没した。
平成14年(2002年)3月 水戸市 銅像制作 小鹿 尚久
徳川光圀公(義公)
黄門さまといえば、杖(つえ)がトレードマークですよね!
水戸黄門神社(義公祠堂/義公生誕の地)に到着
絵馬がかなりミーハー。。。笑
水戸市指定文化財 義公生誕の地
水戸の生んだ不朽の傑人「水戸黄門光圀」(義公)は初代水戸藩主頼房(徳川家康の第11子)の第3子で寛永5年(1628年)6月10日 家老三木仁兵衛之次の邸に生まれた。
母は谷氏(靖定夫人)といい義公の生誕を前にこの屋敷に一粒の梅の実をまいた。義公生誕とともに芽生え、成長とともに育ち、寛文7年(1667年)義公 40才の春 ここに賞花の宴を催し「朽残る 老木の梅も 此宿の はるにふたたび あふぞ嬉しき」と詠んだ。
歌に生母への思慕の情がうかがわれる。
水戸市教育委員会
看板に囲まれてますw
元来た道に戻り、水戸学の道(光圀ルート)めぐりを続けます
味わい深い外観の食堂
まだやってるのかな~(やっててほしい)
秋晴れのいい天気です
水戸城址の方向に向って歩いています
お地蔵さんがいました。
右側の道は水戸学の道になってキレイに整備されたようです。右と左のコントラストが面白い感じです♪♪
水戸のお地蔵さま、柔らかい表情です。お日様も当たっています。
延命地蔵というようで、昭和20年8月2日未明の水戸大空襲で亡くなった方々の霊を慰めるために建立されたそうです。
この昭和20年 8月2日未明というのは僕が生まれ暮らす東京都八王子市の八王子空襲とまったく同じ日付です!水戸と八王子が同じ日時に米軍から攻撃されていた!初めて知りました。合掌。
調べたら富山市への富山大空襲、長岡市への長岡空襲も同じ日でした。
水戸市における戦災の状況(茨城県)
空襲等の概況
昭和20年(1945年)6月半ばまでに、B29の爆撃によって大都市が焦土となった後、地方の中小都市に対しても徹底した焼夷弾爆撃が行われた。
水戸は 8月2日に空襲を受け、同日には八王子・富山・長岡も被害に遭った。
水戸市が標的地とされた理由は、アメリカ軍の「戦術飛行作戦報告書」によると、水戸は「常磐線の主要なサービスセンターで、その都市部は隣接する非常に重要な日立工場のための労働力供給源であり、また下請けの中心」であったからと記されている。
マリアナ基地を飛び立ち、水戸上空に到達した 160機に及ぶ B29は、午前0時31分に空爆を開始し、同2時16分の終了まで約1時間45分続いた。爆撃の高度は約3,700~4,600メートルで、投下された爆弾は、約1,145トンにのぼった。この空襲で水戸市街は焦土と化し、死者は 300人を上まわった。
総務省ホームページより引用
その水戸で今、彼岸花(曼珠沙華)が真っ赤に咲いています。
▼今回の水戸旅行
水戸学の道 光圀ルート1 水戸黄門助さん格さん像と水戸黄門神社(義公生誕の地)
水戸学の道 光圀ルート2 水戸城本丸&二の丸と水戸城跡の大シイ
水戸学の道 光圀ルート3 水戸城大手門と旧水戸彰考館跡、歴史書「大日本史」
水戸学の道 光圀ルート4 弘道館は江戸時代の総合大学!日本遺産近世日本の教育遺産群!
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