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村内 伸弘(むらうち のぶひろ)村内伸弘の彼女

水戸学の道 光圀ルート3 水戸城大手門と旧水戸彰考館跡、歴史書「大日本史」

復元整備工事中の水戸城が美しい!彰考館、大日本史、大手門、弘道館、この道はまさに「水戸学の道」

復元中の水戸城大手門(正面)


水戸城大手門古写真 ※弘道館にて撮影


復元中の水戸城大手門(側面)
令和元年(2019年) 9月30日 村内伸弘撮影



水戸城跡 二の丸展示館

"格さんのモデル" 安積澹泊(あさか たんぱく)像


安積澹泊(あさか たんぱく)

安積澹泊は、10歳のとき光圀に招かれていた明の学者朱舜水に入門し、その厳しい指導を受けて学問を修め、28歳のとき史館に史員として入った。以来、82歳で没するまでの 50余年の長い間「大日本史」の執筆や校訂にあたった。


特に光圀の没後は彰考館総裁として活躍し、晩年には、新井白石・荻生徂徠などの学者と学問的交渉を深め、水戸史学を代表する学者として信望を高めた。


"水戸史学を代表する学者" 安積澹泊


この水戸史学(水戸学)や大日本史が幕末の志士たちの思想に多大なる影響を与えたことは歴史に明らかです!!


明治維新の幕開けとなる桜田門外の変の十八烈士のほとんどが水戸浪士だったのもスゴイです!明治維新は外様の薩摩や長州が主役として語られますが、一番最初に突っ走ったのは親藩の水戸です!!


徳川御三家の水戸が突っ走って、薩摩や長州も動き始めたのが明治維新です。
コレ、すごいですよね!!!!
水戸学というのが(徳川の世では)いかに常軌を逸したエネルギッシュな学問だったのかがよくわかります。


安積澹泊は "明治維新の父"とも呼べるのかもしれません


安積澹泊の通称は覚(かく)兵衛=格(かく)さん


そうです、この安積澹泊こそが水戸黄門の格さんのモデルです(^^)


後ろから見た安積澹泊像


水戸城跡 二の丸展示館


二の丸展示館に入ってみます


無人でした。誰もいません。


「大日本史」と彰考館

江戸時代は「教育の時代」と呼ばれるほど教育熱が高まり、藩校や寺子屋など、多くの教育施設が建てられ、士農工商すべての身分の人々が学問に親しんだ時代でした。その中でも水戸藩は、学問・教育に熱心に取り組んだ藩として知られています。


水戸藩の学問は、二代藩主徳川光圀がはじめた 「大日本史」という歴史書の編纂事業がきっかけとなり盛んになっていきました。光圀は全国から優秀な学者を大勢集め、事業の拠点となる「彰考館」を、江戸と水戸に作りました。ここ水戸市立第二中学校は、水戸彰考館の跡地です。


彰考館の学者の中には、 「大日本史」の編纂のための資料調査で、全国を旅した人もいました。諸国を漫遊する「水戸黄門」のお話しは、こうした水戸藩の学者の「学びの交流」をもとに生まれたものです。さらに光圀は、庶民にも漢詩や和歌などを作ることを勧め、彰考館を「学びの場」として開放していました。


彰考館を中心に行われた 「大日本史」編纂事業は、およそ 250年もの長い歳月にわたって継続され、明治39年(1906年)に完成しました。その過程でまとめられた様々な研究の成果は、出版物として全国に広まり、江戸時代の学問・教育の発展に大きく貢献しました。



大日本史がありました!


大日本史   嘉永4年(1851年)版


これが日本の歴史を動かした大日本史です!



水戸二中は水戸彰考館の跡地です。水戸二中の歴史もご覧ください。

水戸二中むかしむかし


水戸二中八景 水戸城址の大シイ


武徳殿跡石碑「天覧記恩の碑」


テラスから臨む那珂川と阿武隈の遠山


水戸城を偲ぶ二中山脈(水戸城土塁跡)


二中山脈(水戸城土塁跡)


水戸城の歴史



余の大河ドラマ化にご協力くだされ


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旧水戸彰考館跡

旧水戸彰考館跡    日本遺産 近世日本の教育遺産群 -学ぶ心・礼節の本源- 

旧水戸彰考館跡

彰考館は、水戸藩第二代藩主徳川光圀が、わが国の歴史書である「大日本史」の編纂所として創設した史局である。全国から学者を集めての 「大日本史」編纂は、藩の一大事業となり、学問や教育に力を注ぐ水戸藩の伝統は、この時から始まったといえる。


彰考館は最初江戸に置かれていたが、光圀の隠居後、水戸城二の丸にも置かれ、幕末まで編纂事業が進められた。


明治維新後も 「大日本史」の編纂は、徳川家の事業として継続され、偕楽園南隅へ移転した彰考館において、明治39年(1906年)に完成した。



水戸城復元模型(水戸市立博物館蔵)より彰考館の部分


大日本史編纂之地  徳川圀順(くにゆき)書 



彰考館跡

水戸第二代藩主義公(徳川光圀)は修史の志をたてて、明暦3年(1657年)に大日本史(402巻)の編集をはじめた。寛文12年(1672年)にその編集所を彰考館と名付けた。彰考とは「歴史をはっきりさせて、これからの人の歩む道を考える。」という意味である。


当初は江戸小石川の藩邸内においたが、元禄11年(1698年)に水戸城に移した。彰考館は、この二中の敷地の一部に当たり、廃藩置県となった明治4年(1871年)までの 173年間ここにおかれた。


この編集には多くの学者が携わったが、なかでも澹泊齋(安積覚)、十竹(佐々宗淳)、翠軒(立原萬)、幽谷(藤田一正)、天功(豊田亮)、栗里(栗田寛)などが有名である。水戸藩の全精力を傾注したこの大事業は、250年の歳月を費やして、明治39年(1906年)にようやく完成した。


由緒あるこの地に、その昔をしのび、これを建てる。


ここに出てくる十竹(佐々宗淳)の通称は介(すけ)三郎、だから助(すけ)さん。そうです、この佐々宗淳は助さんのモデルなのです。


彰考館の命名については他のパンフレットにはこう書いてありました

支局命名にあたり、「彰往考来 -過ぎたるを彰らかにし未来を考える-」という孔子編纂と伝えられる歴史書「春秋左氏伝」の一節から、その精神を重んじて光圀公が「彰考館」と名付けました。

密着!!お殿様の暮らしより引用



それにしても水戸二中の正門やべえ!

水戸市立第二中学校


水戸二中の生徒たち、毎日この校門をくぐって勉強するんでしょ!?すばらしい子供が育つの間違いなしですよね!!




茨城師範学校跡


茨城師範学校跡校歌


ゆかりも著るき水府城と歌われている水府城は水戸城のことです。



復元整備工事中の水戸城大手門

復元整備工事中の水戸城大手門


水戸城大手門復元整備工事中の看板


水戸城大手門の側面


茨城大学教育学部附属小学校の女の子たちがたくさん通りました。


夕日を浴びる水戸城大手門


すばらしいですね!!
こういう歴史的建造物を復元するのはすごいいいことだと思います。やっぱり人間って、形にならないとイメージできない動物ですからね~


しかも、この水戸城大手門の偉容たるや!
これだけ立派な門があれば、水戸の歴史がより正しく、より広く伝わっていくと思います。


うつくしい水戸城大手門


水戸が持つ重厚な歴史や伝統をこの小学生など次の世代にしっかりと受け継いでいくその象徴がこの大手門になりそうです!!



ドドーン!!

壮観な姿が見事な水戸城大手門!!



大手門の前の大手橋の下はお堀だったはずです


大手橋を渡り、すこし離れてもう一度見てみます!

ケヤキやヒノキを使って昔と同じ工法で作っているそうです。最高です!!


 木造2階建て
 高さ 13メートル
 幅 17メートル
 奥行 6メートル



新水戸八景エリアマップ

水戸烈公!徳川斉昭公像


烈公です、烈公!


ピンボケ残念(苦笑)


徳川斉昭は最後の将軍、江戸幕府 第15代将軍・徳川慶喜の実の父親です。





▼今回の水戸旅行


水戸学の道 光圀ルート1 水戸黄門助さん格さん像と水戸黄門神社(義公生誕の地)


水戸学の道 光圀ルート2 水戸城本丸&二の丸と水戸城跡の大シイ


水戸学の道 光圀ルート3 水戸城大手門と旧水戸彰考館跡、歴史書「大日本史」


水戸学の道 光圀ルート4 弘道館は江戸時代の総合大学!日本遺産近世日本の教育遺産群!


JR水戸駅前の様子と水戸市の魅力、特急ときわ92号で東京へ




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