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夏の滝山城跡(都立滝山公園) 滝山城築城500年!戦国山城ファン必見♪♪

滝山城趾 - 国史跡に指定されている全国有数の中世城郭跡。丘陵上に築いた平山城で形態は自然の地形と堀・土塁などで構築されています♪♪ 大手口から登りました~

夏の滝山城跡(都立滝山公園)


滝山城跡 中の丸


滝山観光駐車場の看板 「ようこそ滝山城跡へ」
令和3年(2021年) 8月1日 村内伸弘撮影



夏。
令和3年夏。


ドライブがてら、築城500年を迎えた地元八王子市の滝山城趾に行ってきました。
滝山城址は今は亡き僕のおじいちゃんが大正15年/1926年の 8月上旬に訪れて名文を残しています。このページ下部からぜひあとでご覧ください!


それではスタート♪♪

令和3年 8月1日、曾祖父村内栄一の命日。東京都八王子市は夏の青空が広がっています


めっちゃ暑いんですけど、気分は爽快です


秋川で泳ぐ人たち。すばらしい夏の景色です♪♪


松田聖子の「レモネードの夏」ですね~♪♪


さあ昼食食べて、お腹を満たしたのでこれから滝山城趾に向います


戦国山城ファン必見 滝山城跡  国史跡 続日本100名城


戦国山城ファン必見

滝山城跡

国史跡 続日本100名城


昭和26年(1951年)に国史跡に指定された滝山城跡は、中世城郭の最高

傑作といっても過言ではなく、空堀・土塁・馬出等の遺構は極めて良好な状態です。1521年頃に多摩一帯を治めていた大石氏により築城されたと伝えられていますが、のちに小田原から勢力を拡げていった北条氏の支城となりました。この頃から滝山城は、北関東への進攻拠点及び甲斐の武田氏に備える砦としての役割を担うようになり、城を継承した北条氏照のもとで大拡張が繰 り返されました。


こうして築き上げられた滝山城は、北を多摩川、南を谷地川に挟まれるように東西およそ 900メ ートルに及び、平山城としては東日本最大級の広さを誇るまでとなりました。また、滝山城の最大の特徴ともいえる複雑な地形を巧みに活かして構成された縄張からは、北条氏の築城能力の高さがうかがえます。屈指の堅城との呼び声も高く、1569年頃には武田信玄が率いる 2万の軍勢からの猛攻に対し、わずか 2千の北条勢で守り抜いたといわれています。


このほか、市内には氏照が築城し、滝山城にかわる本拠地となった「日本100名城」の八王子城跡があります。


滝山街道沿いにある無料駐車場「滝山観光駐車場」にクルマを駐めて大手口から本丸を目指します。


大手口


いきなりけっこう急坂ですが、竹藪や木々で直射日光が防げているのでそれほど暑さは感じません。風も吹いていて、助かります!


美しい木漏れ日


天野坂


天野坂から枡形虎口へ


掘の跡です。わかりますか?


コの字型土橋


11年前に来た時よりもキレイになっている感じです。道も舗装されていたりして、上りやすいです。こういう説明看板も当時はなかったはずです。



スイスイ気持ちよく歩いていくと千畳敷がありました

千畳敷
見えますか?気持ちよさそうに眠っている人がいましたよ~ 笑


わおー!!千畳敷の夏の風景!すばらしいです!!


中の丸南側の防御(櫓門の推定)


中の丸につきました

水たまりに緑の葉っぱが写り込んでいてキレイです♪♪


中の丸
コロナだからでしょうか?ほとんど人は来ていないようです。中の丸は雑草にかなり侵略されていました。。。


まあ古城感はあってかえっていいと思いますけどね!
それにしても空が青いです!真っ青です!!


都立滝山公園

都立滝山公園

滝山城は、相模小田原城に本拠を置く戦国大名北条氏第4代当主北条氏政の弟氏照の居城である。縄張りの見事さから、全国有数の戦国時代の城郭として評価されている。


北条氏照はこれまで「大石系図」などにより武蔵守護代の系譜を引く大石定久の養子として滝山城に入ったとされていた。しかし、近年の研究では、氏照は幼名を藤菊丸と称し、浄福寺城(市内下恩方町)を拠点に由井領を支配していた大石道俊(定久か)の子、大石綱周の養子になったと考えられている。


滝山城の築城年代や氏照の入城時期は不明な点があるが、永禄10年(1567年)までには滝山城を居城としていたとみられる。


永禄12年(1569年)10月、甲斐の武田信玄が小田原城攻略の途中、その道筋にあった滝山城を包囲した。拝島大日堂の森(昭島市)に陣取った武田勢は周辺の村々を焼き払い、滝山城を裸城にしたと伝えられている。このとき氏照は、古甲州道沿いの城下「宿三口」へ兵を繰り出し戦ったと、越後の上杉謙信に自ら書状で伝えている。


その後、天正10年(1582年)頃から新城の築城工事が始められ、同15年までには滝山城から八王子城へと移っていったのである。


滝山城縄張図


この橋は印象的です!中の丸と本丸を結んでいます

引橋


本丸への木橋(最終的な砦へ導く橋)


右奥は堀です


この道を進んで本丸跡に向かいます


本丸南側枡形虎口(小宮曲輪からの城道)


本丸


史蹟 滝山城跡


滝山城本丸址の碑


滝集落から本丸への進入路(搦手口からの進入路)


本丸から金比羅社方面に進むと・・・拝島方面(多摩川方面)の眺め!!

やっほー!超絶景です!


右側には西武ドーム(写真中央)も見えました!!


ハイキングのような感覚でうつくしい景色が見られる滝山城址。すばらしいです!


11年前の 7月に訪れた時に気が付いていたのですが、本丸にある霞神社には「村内賢造」さんという方のお名前が刻まれています。今回もお名前をチェックして、他の方々と一緒に感謝の意を捧げました。「村内賢造」さんは日露戦争で散華された英霊です。


引橋を渡って本丸から中の丸へ移動します


引橋の上から見た細い石畳の道(大堀切)


見上げると木々の間から夏の太陽が覗いています。最高の気分です!!


気持ちいいです!


かわいい~ 緑色の小さなイガグリが落ちていました


歩けば歩くほどいろんな発見や出会いがあります。滝山城ハイキング、たのしいです(^^)/


斜めってる木


行き止まりの曲輪(くるわ)


ははは トロッコまでありました~


ここは東京?ここは八王子?

山奥感がハンパないです 笑


せっかくですのでどんどん前に進んでいきましょう

かたらいの路(古峰の道)


樹液が光り輝いていました


本丸や中の丸から徐々に離れています

かたらいの路(滝山コース)を


古峰の道


古峯ヶ原園地


そろそろ疲れてきました

この道を下って、滝山街道に戻ります


寺谷戸(中山谷戸)


少林寺脇の道をどんどん滝山街道に向けて下っています


ホント東京都は思えない。八王子とは思えない。


里に出ましたよー

滝山二丁目会館(写真右)


お地蔵さんがたくさんいました


僕が下ってきた道は少林寺の参道だったみたいです
武州多磨軍瀧山郷金龍山少林禅寺と刻まれています


瀧山街道に並行して通っている里の中の道を歩きます

滝山城址ハイキングコース


瀧山街道沿いのスーパーアルプス 本部


灼熱の太陽の下、元気に咲いていたさるすべり
ハイキングの醍醐味ですね。こういう美しい花との出会いは。


石垣のある民家


民家の木


カマキリくんがいました♪♪


東京純心大学の正門前を通過


滝山街道沿いにでました。

赤いムクゲが咲いています!


真っ白なムクゲも咲いています!!


滝山街道に向かってそれはそれは美しく咲いています!!

この写真、我ながら傑作です♪♪


山の中じゃないので、灼熱の直射日光を浴びて消耗してましたので、この純白のムクゲには癒されました。ありがとう白ムクゲ!!


この向こう側を左から右へと僕は歩いてきたのです


滝山街道沿いにあった八王子のとうもろこし畑


とうもろこし、この辺りでも作ってるんですね~


僕の家とそんなに気候は変わらないはずなので、僕も来年はとうもろこし作っちゃおうかな~(笑)


僕たちの街・八王子にこういう風景がいつまでも残るといいな~


お化けカボチャ 笑もあった~~



滝山観光駐車場に帰還~ん

道路開通記念
 「思う一念 中央を貫く」
加住地区中央部の市民が永年に亘り要望した道路を十一ヶ年の歳月を費し竣工した 関係者によって記念碑を建る。
昭和39年 秋 発起人代表 村内萬助書


最後にこの碑を見て、僕の滝山城ハイキングは終わりです。
大汗かいて疲れたけど、楽しかったです!
あなたも滝山城を訪れてみてください♪♪


「思う一念 中央を貫く」村内萬助書


発起人 村内萬助


萬助おじさんは僕の曾祖父・村内栄一の弟です。偉人です。

攻撃精神

父に鍛えられた“村内精神"

父がその調子で、あまり家業に身を入れてくれない。母はそのぶんだけ働かなければならなかったわけである。田畑へ出るし、豚の世話もする。豚がお産をするなどということになると、豚小屋に徹夜で泊り込み、生まれたばかりの仔豚の面倒を見るといったことも、珍しくなかったという。それでも明治の女だったから、不平をいうわけでもなく、黙々と働いたらしい。


村内家は八王子市の北部にある加住という村の地主であった。遠く戦国時代にさかのぼれば、北条家の家臣の一家だったといわれている。やがて、北条が豊臣秀吉に破れることによって土着したと伝えられているが、豊臣時代が終わり徳川時代に入ると、江戸の甲州ロを守る幕府直属軍団として歴史上名高い「八王子千人隊」の一家として、幕府に迎えられる。「八王子千人隊」の平常時の仕事は日光東照宮の警護であった。東照宮はご存知の通り、徳川家康を祭ったところであり、徳川幕府の精神的支柱でもあった。その東照宮を警護するわけであるから、当時の千人隊士の袴りは大変なものだったらしい。家系的には、私(村内道昌)は十七代目ということになっている。


さて、明治維新になったときの当主は村内宇三郎といった。肖像画で見ると、なかなか立派な風貌の人物だが、事実、村で、名主的な仕事をする一方、八王子の代表的な産業であった織物業も行なうなど、実力のある人物だったという。


宇三郎は私の祖父である。宇三郎の長男は村内栄一といって、この人は私の伯父に当たる。


栄一という人も若い頃から事業家的な気質に恵まれていたらしく、小学校を出ると同時に、親に無断で千葉県の醤油醸造屋に丁稚小僧として住み込み、年季が明けると八王子に帰ってきて醤油メーカーをはじめた。農家の長男であるから、そこまでする必要はまったくなかったのだが、それでは気がすまなかったのだろう。この人は戦後、醤油製造から家電販売に転進し成功を収めた。現在のムラウチ電気が、それである。


私の父、村内万助は字三郎の次男であった。当然、村内家を継ぐ立場にはなかったのだが、長男が農業より事業家への道を選んだので、成り行きで家を継ぐことになった。


兄が千葉から帰ってきたら、家を継ぐものとばかり思っていた父、万助は、典型的な次男坊であった。小さいときから腕白で、人一倍元気がよかったという。ごく若い頃は競争馬を買って、前橋、伊勢崎といった草競馬場を転戦して歩いたというエピソードもある。


村内万助は現在の八王子工業高絞、当時の八王子染織学校を卒業して、甲種合格で近衛騎兵連隊に入隊した。皇居の守備隊であるから、身体検査、学歴、家柄などすべて厳重に審査される。身長は一番低かったが、この名誉ある連隊に配属されることになったのだ。


軍隊時代の村内万助のエピソードは、軍刀術が抜群に強かったことである。子供の頃から攻撃精神が旺盛で人一倍負けず嫌いだったのが、軍刀術でも負けたくないという気持に結びついたのだろう。


軍刀術にはこんなエピソードがある。ある夜、万助は野戦の演習に出て、何か大切なものを落してきて、営倉に入れられてしまった。ところが、翌日、連隊の軍刀術の中隊対抗試合があった。万助のいない中隊はどんどん負けていく。中隊長が「村内はどうした」というと、営倉に入れてありますという。すぐ出して来いというわけで出場した万助は連戦連勝、ついに自分の中隊を優勝させてしまった。もちろん、営倉は取り消し、中隊長以下に大いにほめられたという。


村内万助が、私の母、正子と結婚した事情については、あまり詳しいことはわからないが、正子は当時十九歳で庄屋の娘だったという。たいへん美人で働さものだったらしい。明治生まれの女性の典型で、我慢強く、常に夫につくすというタイプだった。


嫁に来たときも、父と母は盛大な結婚式はしていないという話である。父は次男で、家を継ぐとは思っていなかったので、やがて財産でもできたら盛大にというつもりだったらしい。


さて、父はというと、軍隊に行ってきて、かなり人間ができてきたものの、まだ若く、次男坊気質も完全には抜けていない。家業の農業よりも、競争馬を連れて歩いたりするほうに熱心である。地主で小作米も入ったからそれでもやっていけたのだが、そのため、母は大変苦労したらしい。


地主とはいっても、自作の田畑もあるし、豚も五、六十頭飼っていた。座って小作人を指図しているわけではなく、とても忙しいのである。


父がその調子で、あまり家業に身を入れてくれない。母はそのぶんだけ働かなければならなかったわけである。田畑へ出るし、豚の世話もする。豚がお産をするなどということになると、豚小屋に徹夜で泊り込み、生まれたばかりの仔豚の面倒を見るといったことも、珍しくなかったという。それでも明治の女だったから、不平をいうわけでもなく、黙々と働いたらしい。


物事を善意に解釈せよ
父がこの調子で、一生遊んでいたら、いまの村内家はないわけだが、ある事件をきっかけに、父は人が変わったように真面目に生きるようになった。      


事件というのは、火事であった。八王子は絹の産地で、村内家でも毎年養蚕を行なっていた。若い年代の人にはわからないと思うが、養蚕は、座敷の畳を全部上げ、そこにかいこ棚をつくり、炭火で部屋を暖めて卵をふ化させる。


その棚が、暖房用の炭火に落ち、自宅が全焼してしまったのである。のちに、父は私(村内道昌)によくこういった。


「前日までは、いくら遊んでいても、地主の息子だから近所の人に旦那さんといわれていた。しかし、一夜明けると、焼け跡にむしろを敷いて、近所の人が炊き出してくれたおむすびを、ありがとうございますといって食べなければならない。一夜乞食とはこのことだなと思ったよ」


人生の厳しさが、そのときはじめて実感としてわかったと、父はよくいっていた。やがて、村内万助は家を建て直すが、それからは人が変わったように遊びをぴたりとやめ、家業に精を出すようになった。母にかわって、一生懸命田畑で働き、豚を飼った。母もそれまでの苦労が報われ、家庭も円満になった.


「結果的には、家が焼けたのはよかったんだ。あのままでは、のちのちまで大切なことがわからなかったろう」


と父はいう。なにか悪いことが起こると、多くの人は、気落ちしてダメになってしまう。しかし、父はそのとき、火事は自分に課せられた試練であろうと思ったという。現象的には大きな災難だが、それは自分がもっと優れた人間になるための試練であって、けっして、本当の災難ではないというわけである。物事を悪いほうへ悪いほうへ解釈していけば、自然に気が滅入って、自分がダメになってしまう。そうすると、本当に物事はどんどん悪いほうへ悪いほうへといってしまう。しかし、悪い出来事を、これは自分のために天が与えてくれた試練だと、善意に解釈してがんばれば、悪い出来事も人生の貴重な教訓になり、物事は良いほうへ良いほうへ向うというわけである。


「すべて、物事を善意に解釈する」


という言葉は、それ以来、村内家の家訓のひとつとなった。悪いことが起こったとき、それを「誰々のせいだ」などと他に責任を転嫁せず、自分の糧とせよということである。


父はまた、


「人間の真価というものは、逆境に立ったとき、はじめてわかる」


ともよくいった。逆境に立ったとき、くじけてしまうか、それとも、笑ってそれを受け止め、再出発ができるかどうかで、その人間の真価がわかるということである。


のちに、農地解放で土地を取り上げられたときも、村内万助にとっては大きな逆境に立たされたときだった。普通、地主が土地を取り上げられれば、それでおしまいである。あとは没落していくよりない。しかし、そのときも父はそれと試練を受け止め、のちに出てくる木工所をつくって、村内家具店の基礎をつくった。最悪の事態でさえ、他人のせいにせず笑って受け止め、再スタートを切るという父、万助の思想は、私が父から学んだ最大の教訓であり、いまの村内ホームセンターを支えている「村内精神」の根底にもなっている思想である。


物事をすべて善意に解釈できれば、悪い事が起こったときにも試練として受け止めることができる。逆境に立ち、それを天が与えた試練として受け止め、「なにくそ」という「負けじ魂」ではね返していけば、何物も怖くないのである。


さらに、物事を善意に解釈し、逆境に立ち向かっていけば、そこから自然に、真心とか奉仕という精神が生まれてくる。悪い事が起こったとき、他人のせいにしなければ、必然的に自分自身を振り返って見るはずである。自分のどこかに悪いところがあったのではないだろうか。それが、悪い結果を招いてしまったのではなかろうか。


この世は、人と人が協力しながら生きている世界である。そう考えていけば、真心で奉仕するほかに正しい道はないというところに必然的にたどりついてしまう。私はよく「百姓商法」という言葉をつかう.これはキャッチフレーズでも何でもない。村内はもともと百姓であるから、百姓の延長上で商売をしているということであり、百姓を売りものにしているわけではない。精神構造そのものが、何百年もの長い間、八王子で農業を営んできた人間のそれであるから、商売もまたその精神構造の上に構築されているということなのである。


男の子は泣くな

(村内道昌)は昭和五年生れ。村内万助が正子と結婚して十二年目にはじめて生まれた子供である。何かの因縁かもしれないが、父とは三回り違う、同じ七石金星の午年である。


ただ、私が父と違うのは、父ががっちりした体格で外向的な気質だったのに対して、私は長身で細く、性格も内向的というところである。どちらかといえば母親に似ているのである。


そんな私を見て、父はこの子は強く育てなければいけないと思ったらしい。たとえば、遊んでいてケガをしたり、年長の子供にいじめられたりして泣いて帰ると、


「男は泣くもんじゃない!」


と家に入れてくれない。幼い頃の私はどんなに痛くても、どんなにくやしくても歯を喰いしばっていなければならなかった。


また、虚弱体質で内気だったから、引っ込み思案になりがちだったが、父はそれを治そうと、昼休みの時間によく相撲を取ってくれた。


「男は攻撃精神が大切だ。ドンとぶつかってこい」


というわけである。そして、三度に一度はわざと負けてくれることも忘れなかった。


相撲だけでなく、父はなにかにつけて、私を一人立ちできる強い人間に育てようとした。たとえば、八王子市内に買物に行って、父と二人で七キロの山道を帰る途中日が暮れた。すると父は、


「急に用事を思い出したので一人で帰りなさい」


という。私は真暗な山道を一人で帰ったのだが、その恐ろしかったことはいまでも忘れられない。いまのように舗装された明るい道ではない。人っ子一人通らない峠の細道である。


「お化けや幽霊なんか絶対にいないんだ」


と私は自分にいいきかせながら峠を越えて家へ帰った。ところが、父は用事を思い出したわけではなかった。私に自立心をつけるために先に歩かせ、自分は後からそっとついてきて見守っていたのである。怖いながらもなんとか自分で家へ帰りついたので父には大いにほめられたが、怖さのあまり足がすくんで動けなくなったら「コラッ、男のくせに」と叱られるところだった。


父にひどく叱られた思い出がひとつある。小学絞に入る前の年、小学校の運動会を見にいったときのことである。


運動会では、未就学児を対象にした「宝拾い」というゲームがあって、私もそこに出されたのだが、たくさんの人が見ている校庭の真中に出されたとたんに足がすくんで動けなくなってしまった。内気だったから、先生が「あそこまでいってお菓子の袋を持ってきなさい」といっても、一歩も足が前へ出ない。とうとう先生が袋を拾ってきて私に渡してくれた。


ところが、それからが大変だった。家へ帰ると父が待構えていて、


「コラッ! おまえはそれでも男か」


とカミナリを落したのである。それはもう恐ろしいケンマクで、


「いまから、学校へ行って、皆が見ている前で校庭を三周走ってこい。グランドを三周してこなかったら家へ入れないぞ」


というのである。家へ入れてもらえなかったら困るから、私は泣きながら校門をくぐり、目をつむって無我夢中でグランドを三周した。運動会の競技をしているところへ変な男の子が入ってきて、泣きながら走ったのだから、見物人もびっくりしたに違いない。しかし私のはうも「走って来なかったら家の子じゃない」といわれているのだから必死であった。


夢中で三周して家へ帰ると、あれほど怖い顔をしていた父がニコニコしていた。


「よくやった。お前は偉い」


というのである。


内気で虚弱児だった私に対する父の教育はざっとこんな調子だった。一人息子だからデキが悪くては困る。周囲はともすれば甘やかしがちである。それでは大人になってから大変だ。


「突撃精神」「攻撃精神」を育て、過度の内気を克服させ、体力をつける。スパルタ教育で自立できる子供をつくるというのが父の教育方針だったのである。


小学生の頃、父の名代で何かの寄合いに出されたことさえあった。お祝いを持って、京王線に乗り、調布に行き、父にいわれた通りお祝いの言葉をいって帰ってくるわけだが、向うは父の名代というので上座へ座らせて酒まで出されたりする。これもやはり教育のひとつだったようだが、子供の私としては緊張のしっぱなしだった。ちゃんとやって帰らないと父のカミナリが落ちるのだから、酒まで飲めとはいわれないにしても大変であった。


村内道昌一代記「村内まごころ商法 & 剛毅の経営」より引用


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