清め塩(きよめじお)を使わない浄土真宗/真宗大谷派の葬儀
死もまた我等なり!「葬儀を縁として」浄土真宗 真宗大谷派のリーフレットより
真宗大谷派のリーフレット「葬儀を縁として」
去る令和2年10月3日、僕の祖母が亡くなりました。
享年94歳。
その葬儀に際して、真宗大谷派の菩提寺のご住職から頂いたリーフレットを皆さんにご紹介致します。
僕はもう 20年ぐらい前にこのリーフレットと同じ境地に達していて、清め塩は一切使っていません。お通夜や告別式に参列した後、自宅に入るときお清めの塩は使っていません。
まさにこのリーフレットに述べられている通りだと改めて思っています。
私たちは清め塩(きよめじお)を使いません
魔を祓うためにお棺の上に刀物をのせたり、火葬場の行き帰りで道を変えたり、家に帰ればお清めと称して死の穢れを清めるために塩を撒くなど、葬儀の時には仏教の教えとは無縁の色々な迷信が行なわれます。
それらは、各地の習慣やしきたりとして、何の疑問もなく行なわれていますが、それが亡き人を限りなく貶めていく行為だと気がついている人は少ないようてす。
たとえば「清め塩」は、現在ほとんどの葬儀に見受けられ、会葬者にもお礼状と共に渡されています。そして、この「清め塩」で「お清め」することが当たり前のように思っている人が多いようです。
しかし、この「塩」でいったい何を清めようと言うのでしょうか。
「清め」と言うからには、何かの「穢れ(けがれ)」を除くという意味があるのでしょう。そうだとすると葬儀は穢れた行為であり、亡き人は穢れたものということになってしまいます。
生前に、父よ母よ、兄弟よ友よと呼び、親しんできた方を、亡くなった途端に「穢れたもの」として「お清め」していくことは、何とも無残であり、悲しく痛ましい行為ではないでしょうか。
仏教では決して「死」を「穢れ」と受け止めることはありません。反対に「死もまた我等なり」と受け止め、生死(しょうじ)するいのちを精いっばいに生きていくことこそ、人間としての生き方であると示しています。
仏教に照らすと「清め」の行為は亡き人を貶めていくばかりでなく私自身の生き方をもあいまいにさせる迷信であり、一切不必要であることが知らされます。
平成5年(1993年)6月29日 東京速報 「清めの塩 不用論」
葬儀を縁として
法名(ほうみょう)とは
写真左: 10月3日に往生した歌子おばあちゃん(昭和53年のクリスマス)
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