「葬儀」とは? 亡き人からの問いかけ、残された者の務めとは!?
ひとりの人間の死。亡き人からの大切な問いとは?「葬儀を縁として」浄土真宗 真宗大谷派のリーフレットより
真宗大谷派のリーフレット「葬儀を縁として」
享年94歳。
去る令和2年10月3日に往生した僕の祖母の葬儀の時に、真宗大谷派のご住職から頂いたリーフレット「葬儀を縁として」の中に "亡き人からの問いかけ" という文章がありました。
この文章は実に深いので、何度も繰り返し繰り返し読みました。
そして自問自答を重ねました。
これは歌子おばあちゃんから僕への問いです。
この文章は僕の大好きなおばちゃんからの問いかけなのです。
亡き人からの問いかけ
亡き人からの問いかけ
今、私たちはかけがえのない人を亡くしました。心の中を様々な思いが駆け抜けていきます。「どうして死んでしまったのか」「かわいそうに」。
それでも、とにかく葬式は出さなければなりません。深い悲しみに沈んではいられないほど、次々と現実の問題が起こってきます。どうか落度のないようにと思いつつ、親戚や友人・ご近所の方々の手を借りて葬儀は行われていきます。
残された遺族はもとより、お手伝いされる方や会葬される方の誰しも「鄭重に送ってさしあげたい」と思いながら葬儀を勤めていくのですが、ともすると葬儀の形のみに目を奪われて「仏事としての葬儀」という大切な意味を見失っているように思われます。
「葬儀」とは、ひとりの人間の死という事実を、私たち一人一人が、自分自身の問題として受け止めていくことであります。
ですから鄭重に葬儀を勤めるということは、必ずしも斎壇(壇飾り)の段数や豪華さでもなければ、僧侶の人数でもありません。
葬儀に参列された方の一人一人が、身近な人の死という悲しい事実を通して、真実の教え-仏法に出遭うことによって、自分自身のあり方を根本的にみつめなおすことであります。
そのことこそ「仏事としての葬儀を勤める」ということになるのでありましょう。
身近な人の死は、私たちの心をゆさぶり、今の日常が永遠に続くかのように錯覚して暮らしている私たちに「やがては死んでいく身を、どう引き受けて生きていくのか」と問いかけています。
しかし、現実には私たちは亡き人に対して「どうか安らかにお眠りください」あるいは「心からご冥福をお祈りします」ということで済ませてしまい、また元の日常生活の中で、地位や世間体などに振りまわされ、かけがえのないいのちをすりへらしているのではないでしょうか。
「ひとりの人間の死」という重い事実を自分の問題として受け止めず、ただ「冥福を祈る」ということだけで過ごすとすれば、それは亡き人からの大切な問いを無にすることであり「自分のあり方を見つめなおす眼(まなこ)」を自ら塞いでしまうことなのです。
愛する人、親しい人との別離ほど悲しく寂しいことはありません。しかし、どれほど幸く悲しいことであっても、亡き人からの問いかけを私たち一人一人がしっかりと受け止めて生きることこそ、残された者の務めなのではないのでしょうか。
法名(ほうみょう)とは
ムラウチ電気店頭で働く若き日の歌子おばあちゃん
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