村内壽一会長 自叙伝 「商工ジャーナル」2003年7、8、9月号
ECサイト「ムラウチドットコム」やムラゴン、にほんブログ村、inkrichを運営する株式会社ムラウチドットコムの前身会社「株式会社ムラウチ」の旧IR情報
株式会社ムラウチ時代のホームページが残っていました。20年ぐらい前、まだ 30代だった僕が転記した父親(村内壽一/むらうち ひさかず)のインタビューです。
温故知新。約20年の歳月が過ぎた後に読むといろいろ感慨深いものがあります。未来に向けて進むべき道を考える参考にもなりますね♪♪
よろしければお読みください
我が人生、我が事業
村内壽一
株式会社ムラウチ 代表取締役会長
㈱ムラウチ
日本最大級の店舗に経営資源を集中する電気店。
PC販売にも早期から取り組み、オンラインショップを拡大中。
資本金2億6700万円、年商164億円、従業員数145名、
本社東京都八王子市
第54話 第1回(3回連載)
今年は、テレビの本放送が開始されて 50周年に当たる。それに合わせて、さまざまな特別番組が組まれ、ずいぶん懐かしい映像も流されている。昭和28年(1953年)2月1日午後2時、東京・内幸町の東京放送会館から放送された「JOAK-TV、こちらは NHK東京テレビジョンであります」という第一声を、うちでは叔父が組み立てた商売用のテレビで受信した。㈱ムラウチの前身である村内テレビが創立されたのは、同じ月の 28日である。だからわが社も、今年で誕生後半世紀を迎えることになる。
戦後の家業の再興
空襲の記憶は私のもっとも古い記憶の一つだ。私は昭和15年(1940年)9月23日の生まれだから、まだ 5歳になる前の、おぼろげな記憶である。私は、弟をおぶった母、歌子に手を引かれて、500メートルほど離れた防空壕に逃げていった。途中で下駄が片方脱げたので、拾いに戻ろうとしたら「そんなものはほっときなさい」とさらにきつく手を握られたのを覚えている。防空壕のある高台まで来て、「街が燃えているからよく見ておきなさい」という言葉に、振り返ると、八王子の街はまるでたくさんのろうそくを灯したように燃えていた。
戦争末期、空襲の対象は大都市から小都市へと移っていく。東京都の郊外、八王子市が空襲を受けたのも終戦のわずか 2週間前の8月2日未明のことだ。約170機のB29が投下した焼夷弾 67万発により、市街地の約8割が焼失し、約450名の命が失われた。
私の自宅も、それに隣接する醤油工場もこのときの空襲で全焼した。私の祖父、村内栄一は、26歳で野田へ修行に行き、大正元年(1912年)、八王子市大和田の現在、当社のある甲州街道沿いの地で醤油製造を始めた。その工場が焼けてしまったのである。
私の父、村雄は陸軍大尉だったが、終戦直後から、祖父と叔父、誉治(よしはる)とともに家業の再興に奮闘する。物資不足の折柄、調達には大変な苦労があったろうと想像されるが、トタン板や木材やセメントなどの資材が集められ、工場が再建された。「よいとまけ」のかけ声とともに何度も何度も重りを滑車で上げては落とす地固めがされた。それは、子供心にも復興の活気を感じさせる光景だった。
父も母も朝から晩まで忙しそうに働いていた。醤油工場の朝は早くて、父は朝6時にはボイラーを焚(た)く。私と弟の忠壽(ただひさ)はその脇で毎朝教科書を音読させられた。父は黙ってそれを聞きながら釜にスコップで石炭を放り込んでいく。間違えたり、つっかえたりすると、正してくれるが、あまり何度も間違えると、「できなかったところは、学校でしっかり勉強してくるんだぞ」とゲンコツで頭をこつんとやられた。しかし、成績については、あまりうるさいことはいわなかった。
小学校高学年になると、家業の手助けができるようになった。洗瓶、醤油詰め、レッテル貼りなどである。回収してきた空き瓶は、大きな盥(たらい)の水に一晩浸けておく。翌朝、レッテルがふやけたところで、たわしでこすり落として再利用するのである。瓶は100本以上もあった。コンクリートの打ちっ放しの工場は底冷えがし、冬場は手の感覚がなくなる厳しい仕事だった。
醤油詰めの作業は、ゴム管で醤油を注入し、頃合いに指で押さえて止める。一升瓶は上に行くほど細くなっており、そこから急に水位が上がるのが速くなる。きっちりした量で止めるそのタイミングが難しく、並べてみると私の入れた瓶は水位が不揃いになっていた。これに王冠をしてレッテルを貼る。空き瓶からよそのレッテルを剥がし、うちの醤油を詰め、「村内醤油」のレッテルに貼り替えるのは、とても気分のいいことだった。
醤油屋からテレビ屋へ
父とともに醤油工場の再建に当たった誉治叔父は、もともとは少年の頃からラジオの組立を趣味にし、無線学校を出た技術者であった。昭和26年(1951年)のある日、その叔父が「テレビジョンが映るから見に来い」と勝ち誇ったように、私の家にやって来た。NHKでは本放送に先立ち、25年に実験局を開局し、11月から週1回の割合で3時間ほど、実験電波を発射していた。叔父はどうしてもそれを受信してみたくなり、非常な情熱を込めて資料と首っ引きでテレビジョンの自作にとりかかったのである。
家族揃って、道路を隔てた叔父の家に行くと、暗幕を張り巡らした部屋に、そのテレビジョン受像機は置いてあった。航空隊で使っていたレーダーかオシロスコープの陰極線管を流用し、それを中心にして部品がむき出しとなっている。科学小説に出てくるようないかにも電子の実験装置然とした雰囲気が漂っていた。5インチの画面に、なにか黒い影が動いている。よくよく目をこらすと、それは、人物のようであった。「スキーをしているらしいなあ」、いっしょにいた父がつぶやいた。父はテレビに非常に興味をそそられた様子で、叔父を質問責めにした。
叔父はテレビジョン受像機の製作に半年ほどを費やしたという。同じ時期、無線マニアがテレビを製作した例は多々あったようだが、叔父のものは、おそらく三多摩で初めて作られたテレビジョンであり、都下では叔父が民間人初のテレビ所有者であろうということだった。「テレビジョン受像機完成」のニュースは、あっという間に近所中の評判となり、新聞記事にまでなった。試験放送のある日には、テレビジョンを一目見ようという人たちがやってきて、すし詰めの薄暗い部屋で、判然としない映像を感嘆しながら眺めたものだ。
学校でも話題となり、級友に囲まれ「テレビジョンとはどんなものだ」とたずねられて、答えに窮した。「遠くで起こっていることが見える」「それなら望遠鏡のようなもの」・・・・・。見たことも聞いたこともない事柄を見たことも聞いたこともない人に、納得がいくように説明するのは難しいものだ。
叔父が純粋に技術的な興味を抱いたこの新しい機械に対して、父は事業としての魅力を感じ、商売にしようと考えた。そして、祖父も叔父もそれに賛成し、昭和28年、テレビ販売を事業内容とする会社を設立したのである。父が社長となり、資本金は26万円、社名を有限会社村内テレビとした。当時日本ではテレビのことを「テレビジョン」と呼んでいた。また、略称として「TV」があった。これを「テレビ」というようになったのは、当社の社名が初めてであるかもしれない。
創業時点では、国産の量産品はなかったので、叔父がさまざまな部品をあれこれ買い集めて、組み立てて売った。つまり当初は組立メーカーでもあったわけだ。
しかしすぐに早川電機(現、シャープ)が量産第一号となる 14インチのテレビを発売し、以後、国産メーカーの製品が出揃っていく。村内テレビでは、創業とほとんど同時に、「マツダリンクストア」(後の東芝ストア)に第一号店として加盟していたので、東芝テレビを主力に販売した。
大卒の新入社員の初任給が 1万円の時代に、17万円以上もするテレビはなかなか売れなかった。そこでテレビを売るためには、まずテレビとは何かを知ってもらうことが必要だった。
昭和28年8月28日に、民放のトップを切って NTVが開局した。テレビの魅力を知らしめるために、盛り場には街頭テレビが設置され、大変な人気となった。
私の家でも醤油工場の敷地に数台のテレビを設置し、プロ野球や大相撲、ボクシングなどの放送のある日には見てもらった。29年2月にはシャープ兄弟と力道山・木村政彦の初のタッグマッチが挙行され、テレビによるプロレス人気が高まっていく。当時、ある業界紙は当社のことを「かえるの鳴く田圃(たんぼ)の中のテレビ店」と紹介した。そのようないささか不便な場所でありながらも、人々が押し寄せ、甲州街道沿いの大和田橋から石川入口あたりまで、1キロ以上にわたって自転車が駐輪した。2000人は集まっただろう。人々の帰った翌朝、敷地の掃除をするのは、中学生になったばかりの私の役目だった。
村内テレビではテレビの運搬のためにパッカードを使っていた。これは、もともとは皇室で使っていた高級車だという。緩衝装置も上等にできていた。車高が高く、対面になった後部座席の観音開きの扉を開けると、コンソール型のテレビ受像機がすっぽりと収まった。真空管を使っていて、非常にデリケートな機械だったテレビを運ぶのにはお誂(あつら)え向きの車であったが、宣伝効果という点でも抜群のものがあった。
購買力のありそうな家に目星を付けてセールスに行くが、「買ってください」とはいわない。「ここでも電波が受信できるかどうかテストさせてください」とお願いするのである。そして、テレビの据え付けには、ボディーに「村内テレビ」と大書きしたパッカードでうやうやしく乗り付ける。近所で評判になり、大勢の人が見に来る。そうすると、なかなか「引き取ってくれ」といいにくくなるのが人情だ。初めは、「置いてもらう」「見てもらう」のが営業であって、本当に売れて代金がもらえるようになるまでには開業してから1年ほどもかかったと聞いている。
NTVが開局して困ったことがある。今となっては笑い話だが、当初うちが組み立てて販売したテレビにはチャンネルがなかったのである。放送は NHKだけ映ればよいと考えていた。それが、新しいテレビ局ができ、さらに増えると、当然チャンネルが必要となる。「うちの買ったテレビはなんでプロレスが見えないのか」と、お客様が怒ってやってくる。
父と叔父は平謝りに謝って無料でチャンネルを付けることにした。ところが最初の設計の段階でチャンネルを付けることなど想定していなかったのだから、チャンネルを取り付ける場所がない。窮余の一策で、テレビの本体の下側にチャンネルボックスがぶら下がるような構造を思いついた。これらの改造はみな無料で行った。当社の顧客重視、アフターサービス重視の姿勢は、すでにこのときから始まっていたものである。
家業はしばらく醤油屋とテレビ屋の二足の草鞋(わらじ)を履いていた。中学に上がってからも、私はずいぶん醤油工場の手伝いをした。しかし、工場のほうの従業員が一人減り、二人減りしていき、家業も本格的にテレビ事業へ転換していったのである。
テレビ市場の膨張期に学生アルバイトでセールス
地元の第八小学校、第一中学校に通い、国立高校を経て昭和33年(1958年)、学習院大学経済学部に入学した。しかし、この頃は家の手伝いを本格的に始めており、週の半分以上はテレビの外交販売をしていた。テレビ受信契約数が100万台を突破したのは 33年である。34年には皇太子ご成婚があってテレビが爆発的に売れた。35年の受信契約数は 500万台を突破し、37年に 1000万台を突破する。まさにその急成長・急拡大の最中(さなか)にあって、私は「勉学よりもこの商機を逃すな」とばかり、学生バイトとしてテレビを売っていたのである。
住宅地図を片手にオートバイでアンテナの立っていない家を回った。最初の日に行ったのは富士見町の分譲地だった。知らない家のドアを叩いて「こんにちは、村内テレビですが」と声を出すにはずいぶん勇気がいった。最初の頃に買っていただいた左入(さにゅう)町のお客様のことは今でもよく覚えている。なれない外交販売に苦戦して、その日も 1台も売れなかった。そのうち雨まで降り出してきた。飛び込んだそのお宅では、ご主人が囲炉裏(いろり)にあたっており、濡れている私に「まあ、火のそばに来い」と勧めてくれた。テレビを売っているのですがといって、カタログを出すと、ちらっと見ただけで、「すぐに持ってきてくれ」という。これはうれしかった。もう少し雨宿りしていけと薦められたが、早々に店に戻り、その日のうちに納品したのを覚えている。このお宅は **さんといい、代は替わったが、今では中央高速の八王子インターの近くでガソリンスタンドをしている。だから、私は今でも、できる限りこのスタンドで給油をするようにしている。
そのうちに外交販売のコツもだんだんつかめてきた。ある地区に行くと、どの家庭でも口を揃えて「○○さんのお宅はどうだった」とたずねられる。その○○さんというのはその地区の有力者であり、そこで話をしていないのに、よその家庭に話を持っていっても取り合ってもらえないのである。訪れる家にも順番があるというようなことを学んでいった。
1日に 20から 30軒の家庭を訪問する。そこで、脈がありそうだとなると、テレビを持ち込んでしまう。これは、従来からの販売方法を受け継いだものだ。八王子は養蚕農家が多く、屋根裏が蚕棚になっている。そこや物干し台の先にアンテナを仮設する。家中が揃っているところでスイッチを入れて、1週間後くらいに商談に行くと、たいていがまとまった。それくらいテレビは、実際に見ると魅惑的な商品だったのだ。
また、近所がテレビを入れたとなると、またたく間にその地区に拡販ができる。例えば、梅坪町というところは 28世帯あったが、そのうち 23世帯から受注することができた。テレビは 1台が 4万5千円から 5万円した。そのうち 1000円が私の歩合となる。当時は大卒初任給が一流企業で 1万2000円くらい、土地がだいたい 1坪3000円くらいだった。セールスに行く日はたいてい 1台は売っていたから、月に 1万5000円から 2万円は稼いだ。東芝が行った「夏休み学生アルバイトコンテスト」で入賞したこともある。
市場が膨張しているときだけに、競争も熾烈(しれつ)になっていった。何度もアタックをかけていた家に行ったら、よその電気店の車が玄関先に止まっている。さらわれてしまったかと、がっかりした。よその電気店が帰ったあとで、顔を出して「買ったんですか」と聞くと、「あんたが来ているんだから、お宅から買うわよ」といわれてほっとしたこともある。
価格競争も始まっていた。情報をつかんでいないと、商売に取り残される。私は学校に行く日は、回り道をして秋葉原の電気街に寄り、秋葉原価格をメモして回った。値札だけではわからないから、店員に直接たずねなければならない。同業者と思われると警戒されてしまうが、学生服を着ていたので「学校の勉強で社会調査をしている」と言い逃れた。
八王子では高速道路や大学の用地買収があって、多額の現金を手にした農家が多かった。その金で新築をし、テレビを置きたいとお宅では即金で払ってもらえた。しかし、「金がない」と断られることも多かった。そのようなお客様には月賦を勧めた。たいていは10回から12回払いの月賦が多かった。
月賦を勧めるには注意が必要だった。あるお客様のところで、やはり「金がないから」といわれ、そこで「月賦はいかがですか」と勧めると血相を変えて怒り出した。「金がない」というのは断る口実であって、本当はそのくらいの金は当然ある大農家だったのだ。簡単にローンで買い物をする今と違って、月賦を借金と同じように考え、抵抗感を持つ人も多かったのである。
(つづく)
第54話 第2回(3回連載)
チェーン店展開と大型店舗の夢
大学を卒業した私はそのまま家業の電気店に就職した。大学時代からアルバイトでしていたテレビの外交販売とともに、昭和40年(1965年)頃からは、週に 1、2回、村内家具店の婚礼用品売り場で、洗濯機、電気スタンド、アイロンなどを売るようになった。
現在は㈱村内ファニチャーアクセスという社名になっている村内家具店は当時、加住(かすみ)町にあった。「八王子駅前を一等地とするなら村内テレビのある大和田町は五等地くらい。ここは十等地だな」と社長の村内道昌氏(現、会長)はよくいっていた。これは自嘲ではなく、むしろ彼の自信を示す言葉である。不便な場所にありながらも、300坪の店は大変に繁盛していた。1時間に1本しかないバスに 3、40分も揺られて、はるばるお客様がやって来る。商談室はいつもいっぱいだった。
村内家具店は私の祖父、村内栄一の弟の万助氏が創業したものだ。実際、わざわざ来てくれたお客様に感謝し、近くに昼食を食べるところがないからと、うどんまで用意するといったような「まごころ商法」で知られていた。婚礼用品などは予算の多寡にかかわらず親身になって相談に乗り、良いものが低価格で揃えられると評判になっていた。
万助氏の長男が村内道昌氏である。彼は私より 10歳年上で、このときは 34、5。一日の仕事が終わると「今日はご飯でも食べていきなよ」とよく声を掛けられ、食事をしながら、仕事から将来の夢、プライベートまでいろいろな話をしたものだ。
道昌氏は、昭和37年に欧州視察旅行に出掛け、スイスのチューリッヒ郊外で超大型家具専門店のメーベル・フィスターを見てきた。そして、「日本のメーベル・フィスター」をつくろうと画策し、中央高速八王子インターチェンジの建設予定地近辺の土地を物色していた。道昌氏が語ってくれた大きな夢に、若い私は共感を抱いた。
私が妻、絹江と知り合ったのも、村内家具店だった。妻は事務をしていた。明朗快活な性格、きびきびとした仕事ぶりとこまやかな心くばりが印象的だった。
昭和33年頃から冷蔵庫、洗濯機、掃除機が「三種の神器」ともてはやされ、私の店でも営業品目を広げていった。商号も創業時の村内テレビから 37年に有限会社ムラウチとし、41年には株式会社に組織変更している。同時に、販売方針も店売り重視へと転換していった。昭和35年には八王子駅前に 24坪の中央店を出店した。40年代に入ると家電業界にも流通変革の波が押し寄せてくる。大型専門店はこぞってチェーン店展開を開始した。当社も「日本一の地域密着化」、「目標100支店」をぶちあげ、駅前中心に 15店を展開していく。たくさんの製品を自分の目で見比べて選びたいというお客様の要望に応えるためのチェーン展開であった。
その一方で、外交販売はふるわなくなっていった。お客様に外交を受け入れる時間も、気持ちのゆとりもなくなってきたことがひしひしと感じられた。以前であれば、お茶を勧められ、食事まで振る舞われることがあったが、戸も開けずに断れれるようなことも多くなっていった。売れない日が続くと、一軒一軒ドアを叩いて、訪販するのが嫌になってくる。そんなときは、思い切り遠出をした。江の島まで行って、そのまま時間を潰して帰ってきたこともある。時代の流れは着実に外交販売から店舗販売へと向っていた。
昭和40年代の店は「ムラウチ大電舗(だいでんぽ)」と名乗り、43年から 45年の 3年間で 8店の支店を集中的に出店した。さらに本店もたびたび増築した。本店は、醤油工場の跡地であったため、店を拡張したり倉庫を造るためには、まず古い建物を壊さなければならず、非効率に資金が使われていった。
こうした投資による万年資金不足の時期でもあった。46年頃から銀行回りが私の役目に加わった。きわめてアナログ的な方法だが、私は会った人の名刺に覚え書きを付けてすべて保存している。ファイルを見ると、この時期、銀行関係の名刺の枚数が急速に増えて、頻繁に銀行回りをしていたことがわかる。
大規模投資で資金繰りに行き詰まる
昭和47年(1972年)の春の休日のことである。私の家で弟の忠壽、常務の藤巻光一氏の三人で昼からビールを飲みながら、今後会社をどうしたものかと相談していた。
これまで主に父の方針によりチェーン店展開を推進してきた。しかし苦労して資金の工面をして支店を 15店も出したというのに、売上も利益も伸び悩んでいた。
それに対して私にはもっと大きな店舗で商売をしたいという気持ちがあった。これは村内道昌氏の影響が大きい。氏が語ってくれた、超大型家具店の夢は、44年、「村内ホームセンター」として現実のものとなっていた。売り場総面積、3000坪、キャッチフレーズの通り、「ティーカップからロールスロイスまで」売っている。その成功を横から見て「うちもああしたい」と考えていたのである。
このときも、あれこれとさまざまな経営展開の可能性を検討したが、どれにも「絶対にいける」という自信は持てない。皆、話し疲れ、ビールのグラスを口に運ぶだけになってしまった。
そのときである。
それまで黙って積木で遊んでいた長男の伸弘(現、社長)が突然、「 だったら大きい店をつくればいいよ 」といった。
「そうだな。じゃあ、つくろう」と、この 5歳だった幼児のひと言が突破口となり、わが社の向かうところが決まった。
一気に大きなものをつくるより堅実にいきたいと父は渋ったが、強くは反対しなかった。現状打破の決め手を父も探しあぐねていたのだ。余力のすべてをつぎ込んで資金の目処(めど)をつけ、48年8月から工事を開始した。延べ面積 2465平方メートルの店舗が完成したのは翌年のことだ。秋葉原にはあったが、駐車場を備えた郊外型の店舗としては、日本初といえる巨大店舗で、開店のときには 3分の2しか商品が埋まらないほどの面積だった。
こうしたいきさつで誕生したムラウチ本店だが、誤算となったのがオイルショックである。着工直後の 48年10月、第一次石油危機が始まる。資材が瞬く間に高騰し、「このままでは工事がつづけられません」と泣きつく業者に、予算の見直しをせざるを得なかった。結果的に 2億3000万円の予算が 3億1000万円にまで膨れあがってしまった。まさに「乾いたタオルをさらに絞る」ようにして、追加資金をやりくりしたのである。
もともと苦しいなかで、そのような過剰投資をしたものだから、資金繰りは一気に悪化し、ついにメーカーと金融機関の出向を受け入れざるを得なくなった。経営のイニシアチブはそちらへ移っていった。危機を招いた責任は父と専務である私にあり、取締役会での発言力は大幅に削がれた。父の心中には複雑なものがあっただろう。彼らに指摘されたのは、後継者である私がもっとしっかりした経営感覚を身につけなければいけないということだ。たしかに私は大学卒業と同時に入社し、外の世界を見たことがない。「一度会社を出て外で修行をしてこい」ということであった。
そこで私は、昭和50年7月から第一家庭電器さんのお世話になることになった。「そういうことなら、何でも教えてあげますよ。いろいろの部署を経験してもらいたいが、まずは現場を見てほしい」と温かく迎えていただいた。配属先の阿佐ヶ谷店では、店長の自宅に下宿させてもらって売り場に立った。資金繰りも経営の舵取りも考えずに、社員としてテレビを売ってさえいればいいということが、こんなにも気楽なものだとは思わなかった。
「修業」は 3年という期限付きであり、本当に戻れるかどうか、じつは半信半疑であったのだが、1ヶ月経つか経たないうちに、早くも呼び戻された。私が不在だった一月の間に、メーカーと金融機関、そして私の父との間にどのようなやりとりがあり、どのような意図のもとに合意がなされたのかは定かではない。しかし、結果として、その年の9月、父は会長に退き、私が社長になったのである。
翌年3月末の決算で、私は、不明瞭になっている売掛金や在庫の帳簿処理を一挙に行い、「きれいな決算」を行いたいと思った。その結果、決算は 17億600万円の売上のところ、2億9700万円の大赤字となった。5月にまとめてこの決算書を金融機関に持っていくと目を剥(む)かれた。今にして思えば、こういう思い切った決算をするときは、金融機関や取引先に事前に相談し、了解を求めるのが経営の知恵である。まったく私は経営者としては、まだまだ若く、未熟であった。
「やっぱりこの男にはまだ社長は任せられない」と断じられ、金融機関との関係はすっかりこじれてしまった。
どん底からの再生
家族会議が開かれた。父は「こうなったら店を閉めようとも思うが、お前たちはどうだ」という。大きな店をつくり経営危機を招いた張本人である私も、弟の忠壽も何も答えられず、うつむくだけだった。そのなかで店の続行を主張したのは母、歌子であった。ふだんは父の後ろに一歩さがっているような母だが、このときは意外なほど強硬だった。
「 壽一や忠壽はまだ若いんだから、死んだ気でやり直したらどうか 」という母の言葉に、もう一度やってみようかという気になった。
以前から私は部屋の壁に店ごとの年々の売上のグラフを貼って毎日眺めていた。支店がじり貧をつづけるなか、本店だけは着実に売上を伸ばしている。甲州街道に直交して国道16号線のバイパスが整備されつつあり、その交差点にある本店は車で来るにはまことに便利な場所になっていた。誤算が重なって、経営危機の直接の原因になってしまった本店だが、「金の卵を産むニワトリ」であることは間違いない。ここで店を畳んでしまっては、それを無駄死にさせてしまい、本店の建設はまったくの判断ミスであったという汚名が残るだけだ。私は自分の決断は正しかったということを証明したいと思った。
父が社長に復帰し、私は平の取締役に降格、個人所有の遊休不動産を売却してその資金を提供して負債を圧縮する。そして支店をすべて閉鎖し、本店一店舗に集約するという方針を固めた。15店あった支店はすでに小さいところから徐々に 8店舗を閉めていたので、7店舗となっていた。そのうちの6店舗を8月に一挙に閉店、翌年に最後の一店となったインター店を閉めた。
父は「社員は一人も辞めさせない。本店で一丸となってやってもらう」と、終始、社員に向かっていいつづけた。これはまことに大英断であったと思う。会社がこういう状況だと、だれでも将来に不安を抱き、士気が低下する。父は安心感を与え、皆で力を合わせてやっていこうという気持ちにさせた。それでも本店まで通いきれないなどの事情から辞める者や、閉店する支店をそのまま引き継ぎ、独立して自分の電気店をやる者などがいて、社員は 105名から 69名にまで減った。
支店を閉める前の売上の内訳は、6割が本店、4割が支店だった。大幅な減少を覚悟しつつ、毎日グラフを眺めていた。しかし、本店がぐんぐん売上を伸ばしていった。4割減でも仕方がないと思っていた売上が、「2、3割減でとどまりそうだ」「いや1割くらいか」となり、最初の 1年ではわずか 4.75%減で収まったのである。さらに翌年からはこれがプラスに転じている。これは支店で買っていただいていたお客様が「やっぱりムラウチで買ってやろう」と本店にまで足を運んでくださったことと、社員のがんばりのおかげであり、涙が出るほどうれしかった。
一方、私は杜撰(ずさん)になっていた財務状況を立て直したいと、村内道昌氏に相談に行った。「それはきちんとしたアドバイスのできる人に見てもらった方がいいね」と道昌氏が紹介してくれたのが公認会計士の丸山美樹先生である。一刻も早く財務を健全化したいと思い、51年10月から顧問をお願いすることにした。丸山先生はスタッフ共々 4人でやってきて、10日間かけて帳簿類を見直していった。
先生がまず私の前にどんと置いたのは売掛台帳だった。前にも述べたように、昭和30年代前半の市場の膨張期のテレビの売り方は、「とりあえず見てください」とお客様の家に現物を置いて、後から商談に取りかかるというものだった。「置けば勝ち」という商法で、帳簿上では代金の未収が多くあった。「これはぜひあなたの責任で集金してください」と丸山先生はいった。「前のように安易に帳簿上で損金処理してしまったのでは、けじめがつかない。ここは自分の足で回って、売ることだけでなく、きちんと集金することの大切さを知ってください」ということだった。先生は厳しい方だが、親身になって経営者としての心構えをも指導してくださったのである。
私はそれこそ「夜討ち朝駆け」という状態で、一軒一軒を歩いた。いい加減な帳簿が頼りで、もしかしたら払ってあるのかもしれない。切り出し方が難しかった。「ムラウチ電気です」といった瞬間の相手の顔つきで払ってあるかないかの判断をするのだ。「払ったでしょ」といわれればそれまでだが、冷や汗をかき、お詫びをしながらお願いすると、本当に払ってない人は文句もいわずに払ってくれた。なかには、「集金に来ないので会社に電話したのですけど、『伝えておきます』といったきり、何も連絡がなかったですよ。ムラウチさんはずいぶんお金持ちの電気屋さんなんだなと思っていました」などと皮肉をいわれ、恥じ入ったこともある。会社のこれまでの実態と、お客様との信頼関係の大切さを改めて思い知らされた貴重な体験だった。
帳簿のお客様すべてを回るには、2、3ヶ月かかった。そして、これで売掛金の 38%を回収することができた。集金を終え、店に寄って仕事を処理して自宅に帰ると 10時、11時になる。そこへ毎晩必ず、丸山先生から電話がかかってきた。先生はその日の店の売上と集金状況をたずね、さまざまな助言や励ましの言葉をくださった。まさに丸山先生はわが社再生の大恩人といえるだろう。
いったんどん底まで落ち、そこで確固とした信念に基づく方向性を示せたことで、社内が一つにまとまった。そこからの業績回復は速かった。本店一店舗体制にした昭和52年の売上は16億2500万円となったものの、53年には19億2200万円と回復し、利益も 4300万円出せた。以降、売上は伸び続け 57年に40億円、58年に 50億円を突破した。そして、63年には110億円を売り上げ、お祝いをした。
支店体制をとっていた頃は、仕入れを行う商品部と各店の店売りとが分離していたが、これを売り場の担当が仕入れをするように改めた。このことで迅速な発注が可能になり、また、販売価格の変更もスピーディーに行えるようになった。自分で仕入れたものは自分で売りきらなければならないという責任感も出る。その結果、一人当たりの年間売上、単位面積当たりの売上は大幅に向上していった。
一方で毎月賃借料などがかかる支店を閉め、自前の土地、建物の本店に集約することで経費の大幅削減ができた。一般管理費で、じつに 25.9%もの削減になったのである。
(つづく)
第54話 第3回(3回連載)
「一店舗巨大主義」を掲げて
昭和51年(1976年)、業界がこぞってチェーン展開を進めるなか、流れに背を向けた形で全支店を閉め、本店にすべての資源を集中する「一店舗巨大主義」により、瀕死のわが社は息を吹き返すことができた。
取引銀行の見直しも進めた。再建のための貴重な指導をしてくださった公認会計士の丸山美樹先生は、初めて当社にお見えになったとき、「中小企業は決算書なんか見なくても、取引銀行の数で財務体質はわかる」といった言葉に冷や汗をかいた。その頃には、取引銀行は12行あり、担保も有効に活用できていなかった。そこで余裕のできたところで取引銀行の集約を進め、現在では4行とお付き合いいただいている。
再建の過程から徹底的に進めてきた効率化であるが、採算ということだけでは割り切れないのが修理サービスである。修理部門は、一時、別会社としていた。しかし、単独で採算をとるためにはどうしても工賃、出張費を高くせざるを得ない。お客様の不評も聞こえてきた。そこで修理会社を本社に吸収し、サービス向上を目指した。現在、修理はメーカーに一任という電気店も多くなった。採算を考えればそういう選択になるだろう。しかし、お客様の満足を考えれば、休日でも出張できる自社修理にこだわるべきだと思った。
現在、当社の修理センターでは 700近い部品を常時在庫。無線カーを配備し、他店で買われた製品であっても迅速な修理を行っている。修理の度合いを速やかに判断して、一部はメーカーに送るが、なるべく自社で修理し、一刻も速くお客様の手元に戻すように努力している。まだ使えるものを修理して使うことは循環型社会の要請でもあり、採算度外視の面はあっても、アフターサービスの完備をムラウチの大きな特長としたいと思っている。
業績の回復の中で私は、昭和54年に社長に再就任した。そして、61年には立体駐車スペースを含め、建物総面積 9477平方メートルの 8号館をオープンさせ、「一店舗巨大主義」をさらに押し進めていった。
巨大店舗とオンラインストア
私は人から「新しものがり屋」といわれている。「新しもの好き」でも「新しがり」でもない。新しいものも好きであるが、その新しいものに付随する、新しい考えや生活様式に感化されやすいということなのであろう。
私の祖父、栄一は農家の跡取りでありながら、醤油工場をつくった。誉治(よしはる)叔父は試験電波を受信したいという熱にとりつかれて、テレビジョンを自作してしまった。それを見た私の父、村雄は村内テレビを興した。また、昭和31(1956年)11月に日本を経ち、昭和基地を設営して越冬した南極予備観測隊に参加した必典(さだのり)という叔父もいる。「新ものがり屋」というのは、村内家の、いわゆる「DNA」なのかもしれない。
私は新しい商品をどこよりも早く扱いたいと思った。その一例がワードプロセッサである。昭和57年に富士通が「マイオアシス」を発売し、ビジネス文書を中心に普及していった。59年、当社では店舗の一部に「ワープロ喫茶」を開いた。お客様はそこでセルフサービスのコーヒーを飲みながら、ワープロの使い方を覚えることができる。講師は私である。操作を独学でマスターした。そして、お客様の横について画面を見ながら使い方をお教えしたのである。ワープロの普及が進むにつれて、「会社で導入したからその練習をしたい」という会社員や OLの方がお見えになるようになった。
これに並行する形でパソコンの普及にも努めた。以前には「マイクロコンピュータ」、略して「マイコン」と呼ばれていたが、それに替わって「パソコン」という呼び名が普通になっていった。昭和54年(1979年)には、NECから PC8001が発売され、パソコンブームの口火を切った。当社では56年に、地元、大和田町商店街の商店主を集めてパソコンセミナーを開催している。
商品としてパソコンの大きな可能性を実感したのは平成7年(1995年)のことである。その年の11月、ウィンドウズ95が発売された。当社でも秋葉原や他の大型店舗と同じように、当日の午前零時からの販売開始を予定していた。前日の午後11時を回る頃から、冷たい雨の中、群集が集まりだした。サービスに用意した 2000人分の甘酒はあっという間になくなってしまった。敷地周辺に人が溢れ、パトカーまで出動する騒ぎになってしまった。零時からの販売の様子を見ていると、代金はレジに入れる暇もなく、足元の段ボール箱に放り込んでいる。これではいけないと、私があわててお札をまとめる役に回った。
この教訓にならってウィンドウズ98の発売のときには、お客様の誘導方法や人員やレジを増やすなど事前に対策を考えておいた。そして、このときは1時間程度の間に、1500本を売ったのである。これは、一店舗の売上としては日本一であったという。
いま、ここまでパソコンが家庭に浸透したのは、インターネットの威力に負うところが大きいと思う。商用インターネットサービスが本格化していったのは平成5年(1993年)頃のことである。当社でもこの頃からネット上のオンラインストアを考え始めた。誰でも、どこからでもアクセスできるインターネットには大きな魅力を感じた。日本全国どころか、その気になれば世界中を相手に商売できるのである。当社は「一店舗巨大主義」でやってきたが、その弱点を補完できるものであると直感したのである。
早速、試行を開始したがなかなかうまくいかなかった。いまではオンラインストア構築のための至れり尽くせりのソフトがあり、サポートの環境もある。しかし、当時はホームページ作成のための使いやすいソフトすらなく、すべて一から考えなければならなかった。そんなこんなで、2年が経過してしまった。
その後を新しくパソコン売り場の担当になった私の長男の伸弘が、前任者から引き継いだ。彼は並々ならぬ熱意を燃やし、オンラインストアの再構築に再挑戦した。売り場の社員とでチームを組み、毎日夜中の 1時、2時まであれこれ作業し、なんとかサイトを作り上げた。
この立ち上げたばかりのオンラインストアの威力をまざまざと見せつけられることになる。いまと違い、平成10年頃、店舗はまだ元旦は休業していたが、そのときもオンラインストアだけは開店していた。
ムラウチ本店の敷地内には、栄寿稲荷という小さな神社がある。祖父がこの地で醤油屋を創業する以前から同じ場所にあるお稲荷様で、正月はこの社(やしろ)に詣でるのを慣例にしている。このときも栄寿稲荷に妻と詣で、出社しているオンラインストア担当の社員をねぎらおうと、差し入れを持って部屋に行った。
暇そうにしているのかと思ったら、案に相違して全員がパソコンに向き合って忙しそうに仕事をしている。その画面には、見ている間にも次から次へとオーダーが入っている。新春サービスとして特別価格で提供したパソコンに注文が殺到したのである。
こうしたノウハウの蓄積を踏まえて、平成11年(1999年)から超大型オンラインストアを本格オープンさせ、12年4月にEC事業部を立ち上げた。同時に、こうした事業への推進力となった伸弘が社長に就任し、私は会長となった。7月には CEO(最高経営責任者)制度を導入し、伸弘が代表取締役社長兼CEOとなった。伸弘が 33歳、私が 59歳である。多くの若い経営者がベンチャー企業を率いている。激変する新世紀を迎えるに当たって、ムラウチが挑戦し続ける企業であるためには、行動力のある若いトップがよりふさわしいと感じたためである。
テレビが IT端末になる情報家電の登場が間近のこととなっている。リビングにある大型の液晶画面で、商品の性能や特徴が音声でも文字でも説明してもらえる。テレビ通販の商品説明には、私もつい引き込まれてしまうのだが、そのような説明が、どの商品についても、リモコン一つでいつでも見られるようになる。値段を比較して、注文もその場ででき、翌日には商品が届く。そうなった場合、店舗販売の存在価値は極度に低下していく。
一方、店舗販売の強みはなんといっても実物を見て、試して、選べるということである。例えばAV機器はさまざまに見比べ、聴き較べて選びたい商品だ。そこで当社では、大型ディスプレイを中心とした、各社のホームシアターの体験ブースに力を入れている。商品体験のイベントやパソコンスクールなどを開催するにも、たくさんの商品を陳列して見比べてもらうにしても、スペースが必要になる。ここに巨大店舗の利点が遺憾(いかん)なく発揮されると思う。オンラインストアの一方で、一日、最新の電気製品に触れて楽しむことのできる、巨大なテーマパークのような店舗が、一つの在り方として考えられるのである。
しかし、実際に見て、試して、選びたい商品は、家電品の半分くらいだ。あとの半分はネットで注文する方が便利で安い。今後、情報家電の出現、普及によって、店舗販売の売上は、3割から4割は減少し、従来の小売業態では苦戦は必至であろう。それは一方で新しいチャンスと見ることもできる。当社の場合、オンライン部門の売上は年々伸び、現在では総売上の 2割を占めるに至っている。
チェロと太陽と風と
会長になってから、経営には口を出さないように努めてきた。私自身がかって父、村雄と経営のことで衝突したことが多かったからである。すっかり「隠居」したつもりで始めたものがチェロである。50代に少しかじって中断していたのを再開した。あるご縁から八王子フィルハーモニー管弦楽団の練習に誘われたが、まだ音階も覚束(おぼつか)ない状態で、合奏など夢のまた夢と思っていた。しかし、プロの先生の個人指導を受け、毎日何時間も練習した結果、定期演奏会にも参加させていただけるようになった。今年(2003年)6月の定期演奏会では、大好きなブラームスの交響曲第二番を演奏することができた。
ここのところ、このチェロの練習時間が極端に減っている。もっと夢中になれることが現れたのだ。3年も経つと、隠居したつもりでも、仕事の虫が騒いできた。そんな折、住宅設備機器を扱っていた小さな店舗建物が空くということを聞きつけた。「それなら俺に使わせてくれ」と 4月11日に新事業を立ち上げ、「環境生活館」とした。太陽光発電、風力発電、屋上緑化の専門店である。
もともと環境に対しては強い関心があった。われわれの販売している商品は電気を使う。その電気の多くは、化石燃料や原子力を使った環境負荷の懸念される発電に依存している。この環境負荷を少しでも低減する取り組みをしたいと、6年前から店の前の広場に太陽光発電装置を設置した。
発電装置自体の販売も同時に行っていたが、それに本格的に取り組みたいと思った、こうした環境事業は、採算面ではまだまだだが、ムラウチの企業イメージのアップにつながる。市場自体は着実に成長しているので、ここで力を入れておくことは、商売的にも大きな布石になるはずだ。
風力発電は、ゼファーの製品を取り扱っている。社長の伊藤瞭介氏は音響メーカーの山水(さんすい)電気の社長だった方だ。それが退職されて 1997年に現在の会社を興された。4月末、たまたまニュース番組を見ていると、その伊藤氏が出演している。創業した年に 45基だった販売が、3000基まで伸びたという。企業のネオンサインや公園の照明等の電源に、環境への取り組みの象徴として使われる例が多い。この風力発電装置を世界に広めるのが夢だと語る伊藤氏に大いに触発された。
また、屋上緑化は、池上信夫氏のアドバイスを受けながら進めている。池上氏は昭和46年、東京タワーから眺めたコンクリートばかりの街の風景に愕然とされ、屋上緑化に取り組んだパイオニアである。70歳に近い現在も精力的に活動されている。今年の6月には講演会を開き、自然と人間、環境に対する独自の哲学をお話いただいた。
池上氏による屋上緑化では、建物に負担をかけないために水に浮くほど軽い緑化基盤材(アクアソイル)が使われる。水やりの特別な設備も必要がない。しかし施主にとっては余分な費用は掛けたくないというネックがある。例えば集合住宅の屋上を緑化し、これを居住者のための家庭菜園としたらどうだろう。朝、屋上に行って、収穫したばかりの野菜でサラダをつくればこんなに素晴らしい朝食はない。菜園を賃貸にして工事費用を回収してもいい。こういったことをあれこれ考えるのは本当に楽しく、時間の経つのも忘れてしまう。
感動と喜びの仕事
今春、太陽光発電を設置した日野第二保育園で、バザーに合わせて装置のお披露目(ひろめ)をするというので、妻とともにご挨拶にうかがった。食事まで勧められ、お母さんたちの手作りのけんちん汁と混ぜご飯を、先生方と一緒に、園児用の小さな椅子と机で食べるという、楽しい体験をさせていただいた。
その後、新事業を紹介するために「太陽光発電」というパンフレットを初めてつくることになり、専門業者に頼んだのだが、どうも表紙が気に入らない。私には、ゴッホの描く太陽のイメージがあったのだが、それでは版権が大変だという。そんなときに妻が「では、あそこの園児さんに絵を描いていただいたらどうですか」というアイデアを出してくれた。お願いすると、園長の坂本実先生にも快く協力してもらえ、駒沢歩弥(あゆみ)ちゃんという女の子の絵を採用させていただいた。よく見ると太陽の下に二本の棒のようなものが出ている。太陽は東から昇って、大空を一日かけてとことこ歩いて西に沈む。その足だというのである。とても気に入ったパンフレットができた。
このパンフレットをポストに入れて歩くのが私の早朝の日課である。ハイブリッドカーの屋根に、ゼファー社の風車を取り付けた。発電しながら走るというわけにはいかないが、人目は十分にひく。子供は目を丸くして喜んでくれる。この車で、その日の地域に向かい、朝の爽やかな空気のなか、パンフレットを配る。牛乳を一緒に配達する若いご夫婦と顔見知りになったり、作業着姿のご主人が車で出かけるのを子供と見送る奥さんなど、心が温まるような朝の風景に接することができる。
この事業はささやかな雇用の創出にも貢献している。ポスティングの仕事を、4名の方にお願いしているのである。企業をリタイアした人を採用し、自由な時間に配っていただいている。みなさんこの仕事に意義を見出してくださった方で、誇りと情熱を持って取り組んでいただいているのがうれしい。
環境事業は私にとって楽しくてたまらない「喜びの仕事」である。この事業を始めて本当にいろいろな人とふれあい、さまざまな感動や感銘をいただいた。その人たち一人一人の笑顔や小さな幸せの基本には、美しい環境がある。その環境を守る仕事を通じて喜びをお返ししたい。それが私の新たな挑戦と考えている。
(完)
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