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村内 伸弘(むらうち のぶひろ)村内伸弘の彼女

享年103歳、天寿を全う。村内テレビ(ムラウチ電気)創業者・村内誉治の大往生

誉治おじさんは平成30年2月9日、百三歳を以って天寿を全うしました。ありがとうございました。さようなら。

村内テレビ(ムラウチ電気)創業者 村内誉治

村内テレビ(ムラウチ電気)創業者 村内誉治(むらうち よしはる)



"稀代の大技術者" 村内誉治さんが亡くなりました。
僕の大叔父(大おじ)です。
享年 103歳。
大往生だと思います。


僕はお通夜と告別式の両方に参列させていただき、お別れをすることができました。安らかな寝顔でした。副葬品として愛用されていた murauchi.co.jpのロゴが入った黒い野球帽も柩に入っていました。感慨深いです。。。



僕の大叔父・誉治おじさん

僕の大叔父・誉治おじさん



村内誉治さんは僕の祖父・村内村雄(むらうち むらお)の弟で昭和28年(1953年)に村雄と一緒に兄弟で村内テレビを創業しました。


僕が今社長をしている株式会社ムラウチドットコムはこの村内テレビの流れを汲む会社ですので、もし誉治おじさんがいなければ、ムラウチドットコムも存在していなかったと思います。ムラウチドットコムが存在していなければ ECサイトのムラウチドットコムはもちろん、にほんブログ村muragon(ムラゴン)Spolete(スポリート)も存在していないということになるわけなのです!


「ムラウチ」はこの類い希なる大技術者の努力や熱意、能力のお陰で今日まで発展、存続しているのですっ!温故知新、心から感謝しています!!



村内醤油店 - 1912年/大正元年 創業
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村内テレビ - 1953年/昭和28年 創業
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ムラウチ電気(ムラウチ) - 1962年/昭和37年 商号変更
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ムラウチドットコム - 2005年/平成17年 創業






悼譽治兄(譽治兄を悼む) 弟 村内必典

悼譽治兄(譽治兄を悼む)  弟 村内必典

この必典(さだのり)おじさんも 100歳です!
兄貴のために 100歳でこの漢詩をつくりました。
葬儀中もデジカメを撮っていて、毎日パソコンの前に向かい、インターネットをやるのが楽しみなんだそうです!!「最澄空海」という名前で Twitterもやってるそうです!!!!


最澄空海

最澄空海 (@mura_0720) | Twitter




追想のしをり - 故 村内 誉治 儀 葬儀告別式

追想のしをり  故 村内 誉治 儀  葬儀告別式


「父の軌跡を偲んで」


科学やテクノロジーが 著しく発展した 20世紀

まさしく父は その時代を知る

生き字引のような存在でした

戦争当時は 技術者として軍事工場で働き

関東大震災や八王子空襲も経験するなか

何も物がない貧困の時代から

物や情報があふれる現代まで

技術に裏打ちされた知恵と

腕一本で たくましく生きてきました


昭和26年 NHKの実験放送がはじまり

父は三多摩地区初のテレビ受信技術者として

目でも耳でもたのしめる こんな面白いものはないと

家業の醤油屋をたたみ 村内テレビを創設

ムラウチ電気の基盤を築きました


後年は 縮尺模型作りに夢中になり

ヘリコプターや機関車 船に潜水艦と

気が遠くなるような作業を楽しむかのように

こつこつと取り組んでいた姿も浮かびます

作品のひとつは 村内美術館に展示しております


100歳になっても車の運転をし

優良ドライバーの太鼓判もいただきました

今年の正月三が日までは達者そのもので

"次は茶寿のお祝いだね"と笑い合っただけに

長寿とはいえ 父のいない寂しさが込み上げてきます


今やテレビ離れが進み

インターネットの時代になりつつあります

進化と成長を遂げてきた父の志を

受け継いでゆくことが私たちの使命だと肝に銘じ

父の新たな世界への旅立ちを見送ります


平成30年2月9日 父 村内 誉治 は

103歳を以って天寿をまっとういたしました。


多くの方々に支えられ 父は好きなこと

やりたいことを貫くことができました

生前のご厚情に心から感謝申し上げます


村内輝久





下記は平成5年に亡くなった僕の祖父・村内村雄の昭和44年2月記 「ムラウチ創生期ものがたり」より抜粋してみました。続けてご覧ください。


■殺到する見学団 村内さん 部品買集めて自作


人間の運命もちょっとした動機によって大きく変化するものである。私は生まれたときから私の職業は父の家業を継いで、醤油屋になることと確定していた。私は成長するにつれてそうなるべく次第に育成されていった。それがふとした風の吹き廻しで、現在の電気商に飛びこんでしまったのだ。 


昭和28年3月の NHKのテレビ放送開始は、日本の文化に一大変化を画するものであったと同時に、私の運命にも、決定的、変化をもたらしたのである。私はこの放送開始と同時に、現在の電気店経営の使命をビッシリ背負いこんだのであった。しかしその当時は、こんなに、私が全力投球をするようになるなどとは、夢にも考えていなかった。そのいきさつを語ろう。 


話は少し前にさかのぼって、大東亜戦争で破れ、陸軍の将校であった私は、市ヶ谷の陸軍省から我家に帰って醤油の製造に従事し、中断していた醤油屋の経営を再び情熱をもって開始したのであったが、その経営に、私と共に従事していた私の次弟で誉治(よしはる)は、少年の頃から、アマチュア、ラジオの組立てに異常な程の興味をもっていたが、たまたま昭和26年頃から、NHKがテレビの試験放送を開始したので、彼はそのテレビに深い関心を示して、どうしても自分でその電波をキャッチしてみたくて仕方がなかったので、彼はコツコツと、無線と実験などの本を先生として、テレビ製作に取りかかったのであった。 


昭和26年のある日、「テレビジョンが写るぞ、見に来い」と勝ち誇った顔の弟の声に、私や父が、彼の家に行ってみると、確かに何か動物らしいものが動くのであった。私がテレビを見たのはこれが始めてである。彼の部屋はカーテンで、しっかりと太陽光線を、さえぎって、まっ暗になっていて、その中に直径3インチくらいのブラウン管を抱いたゴチャ、ゴチャした複雑な機械があって、ラジオより他に、この種の機械を見たことのない私達にとっては、このテレビでもまことに複雑なものとの強い印象をあたえた---そのブラウン管に人か動物かの黒い動く影が写ったのであった。多分スキーをしている場面なのだろうけれど、猿のような、黒い影が動くのである。「ワッ!写った、動くぞ!」私達は感激の声をあげて、不思議がった。「どうして写るのだ」などと、弟に質問の雨を、あびせたものである。


それはたちまち、近所の評判となった。そしてやがて下記のような新聞記事となって、一層世間に拡まるようになったのである。


その当時はまだブラウン管などは売られていなかったので、弟は苦心して、航空隊で使っていた小さなブラウン管を手に入れて、これで兎に角テレビらしいものを作ったのであった。


これは三多摩地方で作られたテレビ第一号機であったと確信している。この点で、弟の余暇に造ったこのテレビは、テレビ文化史にとって、極めて記念すべきものであったが、いまは惜しくも、そのテレビはなくなってしまった。弟は次には更に大きいブラウン管で、テレビジョンを作ったそして又々新聞記事となったのである。 


街のテレビ教室  殺到する見学団 村内さん 部品買集めて自作

朝日新聞 昭和27年2月17日 都下版 

「街のテレビ教室  殺到する見学団 村内さん 部品買集めて自作」


・八王子市大和田町1094会社員 村内誉治さん(38)方は毎週金・土曜の午後2時から 2時間、テレビジョンを見る付近の人達で押すな押すなの盛況。

・目黒の無線学校出の主人誉治さんが買い集めた部品を組み立て、半年ぶりにやっとこのほど完成したもの。民間人では都下初めてのテレビ所有者だという

・付近の小学校でも「ぜひ教材に」と見学を申し込んできている

・写真はテレビ見学でにぎわう村内さんの研究室


昭和28年の NHK本放送については、その年の正月頃から弟は「オレはテレビジョンを作りたい、これを商売にしたい。兄さん協力してくれ」といい出したので、なる程それでは売る方は僕が片手間に手伝ってやれば良いと考えて、それではテレビジョン屋を開こうということで、兎に角 NHKの本放送までにと「有限会社村内テレビ」を登記設立した。 


このテレビという名にするか、テレビジョンにするか、テレヴィジョンにするかについては相当私達は迷ったものであった。今でこそテレビ、又は更に略して TVになっているが、当時は皆、テレビジョンと呼んでいたのである。


村内村雄




■昭和26年 NHKがテレビの実験放送を開始


この時を誰よりも期待と興奮で待っていた人が村内誉治であった。

秋葉原の電気街で部品を買い集め、自作した 7インチのブラウン管に実験放送の映像が浮かび出た。多摩地区で最初にテレビ放送の受信に成功した人物こそ、村内電気の創立者の一人村内誉治である。


昭和28年2月 村内村雄・歌子・村内誉治・栄子の 4名が発起人となり、資本金26万円をもって有限会社村内テレビを創設し、本社を八王子市大和田町に置き、テレビ販売を主に家庭電気製品の小売販売を実施。現在のムラウチ電気に至る。


株式会社ムラウチネットワーク  ホームページより引用


「この時を誰よりも期待と興奮で待っていた人が村内誉治であった。」
というくだりを読むと血潮が踊りますね!!




合掌。
誉治おじさん、安らかにお眠りください。


色々本当にありがとうございました。



昭和30年頃の村内一家の写真 江の島にて

昭和30年頃の村内一家の写真 江の島にて
写真一番左が誉治おじさん


もう時効ですが、この大人数でどうやって八王子から江の島に向かったのか?
答えは大きなトラックの荷台にみんなで乗っていったそうです 笑


バレると交通違反なので、冷蔵庫の大きな箱をいくつも荷台に載せて、その大きな段ボール箱の中にみんなで一緒に潜んでいたとのことですw
段ボールの中から小さな穴を空けて、そこから外の景色を覗きながら江の島に向かったそうなんです。


戦後って楽しい時代ですよね!
上の写真、みんな笑顔ですよ。みんな笑っています。


葬儀場でこの写真を見ながら、僕の父親が楽しそうに思い出を語っていました。




くしくもお通夜の日・2月15日は
僕の満50歳(半世紀)の誕生日でした。


母親からは満100歳(一世紀)を目指せと激励されました 笑



▼平成27年(2015年) 6月に僕が書いたブログ記事

100歳のドライバー 村内誉治

満100歳の現役ドライバー株主 現る! 第10期株主総会
百歳高齢者表彰 村内譽治殿 大正三年十二月十日生(内閣総理大臣 安倍晋三)




村内グループのお歴々 - 村内誉治

写真左下: 満102歳の時の誉治おじさん



86歳当時の"創業者" 村内誉治へのインタビュー


「村内テレビ研究所」の看板を抱きしめ「家宝だね!」と笑った 86歳の誉治おじさん



自宅の中で自作のラジコン飛行機を見ながら自慢げな 86歳の誉治おじさん


醤油屋からテレビ屋、電気屋へ。ムラウチの歴史の前で想い出を蘇らせる 86歳の誉治おじさん



▼誉治と一緒に村内テレビを創業した僕の祖父・村雄

村内 村雄(むらうち むらお)

5月27日、陸軍輜重兵だった祖父・村内村雄のお墓参り


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