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夏の滝山城跡(都立滝山公園) 滝山城築城500年!戦国山城ファン必見♪♪

滝山城趾 - 国史跡に指定されている全国有数の中世城郭跡。丘陵上に築いた平山城で形態は自然の地形と堀・土塁などで構築されています♪♪ 大手口から登りました~

夏の滝山城跡(都立滝山公園)


滝山城跡 中の丸


滝山観光駐車場の看板 「ようこそ滝山城跡へ」
令和3年(2021年) 8月1日 村内伸弘撮影



夏。
令和3年夏。


ドライブがてら、築城500年を迎えた地元八王子市の滝山城趾に行ってきました。
滝山城址は今は亡き僕のおじいちゃんが大正15年/1926年の 8月上旬に訪れて名文を残しています。このページ下部からぜひあとでご覧ください!


それではスタート♪♪

令和3年 8月1日、曾祖父村内栄一の命日。東京都八王子市は夏の青空が広がっています


めっちゃ暑いんですけど、気分は爽快です


秋川で泳ぐ人たち。すばらしい夏の景色です♪♪


松田聖子の「レモネードの夏」ですね~♪♪


さあ昼食食べて、お腹を満たしたのでこれから滝山城趾に向います


戦国山城ファン必見 滝山城跡  国史跡 続日本100名城


戦国山城ファン必見

滝山城跡

国史跡 続日本100名城


昭和26年(1951年)に国史跡に指定された滝山城跡は、中世城郭の最高

傑作といっても過言ではなく、空堀・土塁・馬出等の遺構は極めて良好な状態です。1521年頃に多摩一帯を治めていた大石氏により築城されたと伝えられていますが、のちに小田原から勢力を拡げていった北条氏の支城となりました。この頃から滝山城は、北関東への進攻拠点及び甲斐の武田氏に備える砦としての役割を担うようになり、城を継承した北条氏照のもとで大拡張が繰 り返されました。


こうして築き上げられた滝山城は、北を多摩川、南を谷地川に挟まれるように東西およそ 900メ ートルに及び、平山城としては東日本最大級の広さを誇るまでとなりました。また、滝山城の最大の特徴ともいえる複雑な地形を巧みに活かして構成された縄張からは、北条氏の築城能力の高さがうかがえます。屈指の堅城との呼び声も高く、1569年頃には武田信玄が率いる 2万の軍勢からの猛攻に対し、わずか 2千の北条勢で守り抜いたといわれています。


このほか、市内には氏照が築城し、滝山城にかわる本拠地となった「日本100名城」の八王子城跡があります。


滝山街道沿いにある無料駐車場「滝山観光駐車場」にクルマを駐めて大手口から本丸を目指します。


大手口


いきなりけっこう急坂ですが、竹藪や木々で直射日光が防げているのでそれほど暑さは感じません。風も吹いていて、助かります!


美しい木漏れ日


天野坂


天野坂から枡形虎口へ


掘の跡です。わかりますか?


コの字型土橋


11年前に来た時よりもキレイになっている感じです。道も舗装されていたりして、上りやすいです。こういう説明看板も当時はなかったはずです。



スイスイ気持ちよく歩いていくと千畳敷がありました

千畳敷
見えますか?気持ちよさそうに眠っている人がいましたよ~ 笑


わおー!!千畳敷の夏の風景!すばらしいです!!


中の丸南側の防御(櫓門の推定)


中の丸につきました

水たまりに緑の葉っぱが写り込んでいてキレイです♪♪


中の丸
コロナだからでしょうか?ほとんど人は来ていないようです。中の丸は雑草にかなり侵略されていました。。。


まあ古城感はあってかえっていいと思いますけどね!
それにしても空が青いです!真っ青です!!


都立滝山公園

都立滝山公園

滝山城は、相模小田原城に本拠を置く戦国大名北条氏第4代当主北条氏政の弟氏照の居城である。縄張りの見事さから、全国有数の戦国時代の城郭として評価されている。


北条氏照はこれまで「大石系図」などにより武蔵守護代の系譜を引く大石定久の養子として滝山城に入ったとされていた。しかし、近年の研究では、氏照は幼名を藤菊丸と称し、浄福寺城(市内下恩方町)を拠点に由井領を支配していた大石道俊(定久か)の子、大石綱周の養子になったと考えられている。


滝山城の築城年代や氏照の入城時期は不明な点があるが、永禄10年(1567年)までには滝山城を居城としていたとみられる。


永禄12年(1569年)10月、甲斐の武田信玄が小田原城攻略の途中、その道筋にあった滝山城を包囲した。拝島大日堂の森(昭島市)に陣取った武田勢は周辺の村々を焼き払い、滝山城を裸城にしたと伝えられている。このとき氏照は、古甲州道沿いの城下「宿三口」へ兵を繰り出し戦ったと、越後の上杉謙信に自ら書状で伝えている。


その後、天正10年(1582年)頃から新城の築城工事が始められ、同15年までには滝山城から八王子城へと移っていったのである。


滝山城縄張図


この橋は印象的です!中の丸と本丸を結んでいます

引橋


本丸への木橋(最終的な砦へ導く橋)


右奥は堀です


この道を進んで本丸跡に向かいます


本丸南側枡形虎口(小宮曲輪からの城道)


本丸


史蹟 滝山城跡


滝山城本丸址の碑


滝集落から本丸への進入路(搦手口からの進入路)


本丸から金比羅社方面に進むと・・・拝島方面(多摩川方面)の眺め!!

やっほー!超絶景です!


右側には西武ドーム(写真中央)も見えました!!


ハイキングのような感覚でうつくしい景色が見られる滝山城址。すばらしいです!


11年前の 7月に訪れた時に気が付いていたのですが、本丸にある霞神社には「村内賢造」さんという方のお名前が刻まれています。今回もお名前をチェックして、他の方々と一緒に感謝の意を捧げました。「村内賢造」さんは日露戦争で散華された英霊です。


引橋を渡って本丸から中の丸へ移動します


引橋の上から見た細い石畳の道(大堀切)


見上げると木々の間から夏の太陽が覗いています。最高の気分です!!


気持ちいいです!


かわいい~ 緑色の小さなイガグリが落ちていました


歩けば歩くほどいろんな発見や出会いがあります。滝山城ハイキング、たのしいです(^^)/


斜めってる木


行き止まりの曲輪(くるわ)


ははは トロッコまでありました~


ここは東京?ここは八王子?

山奥感がハンパないです 笑


せっかくですのでどんどん前に進んでいきましょう

かたらいの路(古峰の道)


樹液が光り輝いていました


本丸や中の丸から徐々に離れています

かたらいの路(滝山コース)を


古峰の道


古峯ヶ原園地


そろそろ疲れてきました

この道を下って、滝山街道に戻ります


寺谷戸(中山谷戸)


少林寺脇の道をどんどん滝山街道に向けて下っています


ホント東京都は思えない。八王子とは思えない。


里に出ましたよー

滝山二丁目会館(写真右)


お地蔵さんがたくさんいました


僕が下ってきた道は少林寺の参道だったみたいです
武州多磨軍瀧山郷金龍山少林禅寺と刻まれています


瀧山街道に並行して通っている里の中の道を歩きます

滝山城址ハイキングコース


瀧山街道沿いのスーパーアルプス 本部


灼熱の太陽の下、元気に咲いていたさるすべり
ハイキングの醍醐味ですね。こういう美しい花との出会いは。


石垣のある民家


民家の木


カマキリくんがいました♪♪


東京純心大学の正門前を通過


滝山街道沿いにでました。

赤いムクゲが咲いています!


真っ白なムクゲも咲いています!!


滝山街道に向かってそれはそれは美しく咲いています!!

この写真、我ながら傑作です♪♪


山の中じゃないので、灼熱の直射日光を浴びて消耗してましたので、この純白のムクゲには癒されました。ありがとう白ムクゲ!!


この向こう側を左から右へと僕は歩いてきたのです


滝山街道沿いにあった八王子のとうもろこし畑


とうもろこし、この辺りでも作ってるんですね~


僕の家とそんなに気候は変わらないはずなので、僕も来年はとうもろこし作っちゃおうかな~(笑)


僕たちの街・八王子にこういう風景がいつまでも残るといいな~


お化けカボチャ 笑もあった~~



滝山観光駐車場に帰還~ん

道路開通記念
 「思う一念 中央を貫く」
加住地区中央部の市民が永年に亘り要望した道路を十一ヶ年の歳月を費し竣工した 関係者によって記念碑を建る。
昭和39年 秋 発起人代表 村内萬助書


最後にこの碑を見て、僕の滝山城ハイキングは終わりです。
大汗かいて疲れたけど、楽しかったです!
あなたも滝山城を訪れてみてください♪♪


「思う一念 中央を貫く」村内萬助書


発起人 村内萬助


萬助おじさんは僕の曾祖父・村内栄一の弟です。偉人です。

攻撃精神

父に鍛えられた“村内精神"

父がその調子で、あまり家業に身を入れてくれない。母はそのぶんだけ働かなければならなかったわけである。田畑へ出るし、豚の世話もする。豚がお産をするなどということになると、豚小屋に徹夜で泊り込み、生まれたばかりの仔豚の面倒を見るといったことも、珍しくなかったという。それでも明治の女だったから、不平をいうわけでもなく、黙々と働いたらしい。


村内家は八王子市の北部にある加住という村の地主であった。遠く戦国時代にさかのぼれば、北条家の家臣の一家だったといわれている。やがて、北条が豊臣秀吉に破れることによって土着したと伝えられているが、豊臣時代が終わり徳川時代に入ると、江戸の甲州ロを守る幕府直属軍団として歴史上名高い「八王子千人隊」の一家として、幕府に迎えられる。「八王子千人隊」の平常時の仕事は日光東照宮の警護であった。東照宮はご存知の通り、徳川家康を祭ったところであり、徳川幕府の精神的支柱でもあった。その東照宮を警護するわけであるから、当時の千人隊士の袴りは大変なものだったらしい。家系的には、私(村内道昌)は十七代目ということになっている。


さて、明治維新になったときの当主は村内宇三郎といった。肖像画で見ると、なかなか立派な風貌の人物だが、事実、村で、名主的な仕事をする一方、八王子の代表的な産業であった織物業も行なうなど、実力のある人物だったという。


宇三郎は私の祖父である。宇三郎の長男は村内栄一といって、この人は私の伯父に当たる。


栄一という人も若い頃から事業家的な気質に恵まれていたらしく、小学校を出ると同時に、親に無断で千葉県の醤油醸造屋に丁稚小僧として住み込み、年季が明けると八王子に帰ってきて醤油メーカーをはじめた。農家の長男であるから、そこまでする必要はまったくなかったのだが、それでは気がすまなかったのだろう。この人は戦後、醤油製造から家電販売に転進し成功を収めた。現在のムラウチ電気が、それである。


私の父、村内万助は字三郎の次男であった。当然、村内家を継ぐ立場にはなかったのだが、長男が農業より事業家への道を選んだので、成り行きで家を継ぐことになった。


兄が千葉から帰ってきたら、家を継ぐものとばかり思っていた父、万助は、典型的な次男坊であった。小さいときから腕白で、人一倍元気がよかったという。ごく若い頃は競争馬を買って、前橋、伊勢崎といった草競馬場を転戦して歩いたというエピソードもある。


村内万助は現在の八王子工業高絞、当時の八王子染織学校を卒業して、甲種合格で近衛騎兵連隊に入隊した。皇居の守備隊であるから、身体検査、学歴、家柄などすべて厳重に審査される。身長は一番低かったが、この名誉ある連隊に配属されることになったのだ。


軍隊時代の村内万助のエピソードは、軍刀術が抜群に強かったことである。子供の頃から攻撃精神が旺盛で人一倍負けず嫌いだったのが、軍刀術でも負けたくないという気持に結びついたのだろう。


軍刀術にはこんなエピソードがある。ある夜、万助は野戦の演習に出て、何か大切なものを落してきて、営倉に入れられてしまった。ところが、翌日、連隊の軍刀術の中隊対抗試合があった。万助のいない中隊はどんどん負けていく。中隊長が「村内はどうした」というと、営倉に入れてありますという。すぐ出して来いというわけで出場した万助は連戦連勝、ついに自分の中隊を優勝させてしまった。もちろん、営倉は取り消し、中隊長以下に大いにほめられたという。


村内万助が、私の母、正子と結婚した事情については、あまり詳しいことはわからないが、正子は当時十九歳で庄屋の娘だったという。たいへん美人で働さものだったらしい。明治生まれの女性の典型で、我慢強く、常に夫につくすというタイプだった。


嫁に来たときも、父と母は盛大な結婚式はしていないという話である。父は次男で、家を継ぐとは思っていなかったので、やがて財産でもできたら盛大にというつもりだったらしい。


さて、父はというと、軍隊に行ってきて、かなり人間ができてきたものの、まだ若く、次男坊気質も完全には抜けていない。家業の農業よりも、競争馬を連れて歩いたりするほうに熱心である。地主で小作米も入ったからそれでもやっていけたのだが、そのため、母は大変苦労したらしい。


地主とはいっても、自作の田畑もあるし、豚も五、六十頭飼っていた。座って小作人を指図しているわけではなく、とても忙しいのである。


父がその調子で、あまり家業に身を入れてくれない。母はそのぶんだけ働かなければならなかったわけである。田畑へ出るし、豚の世話もする。豚がお産をするなどということになると、豚小屋に徹夜で泊り込み、生まれたばかりの仔豚の面倒を見るといったことも、珍しくなかったという。それでも明治の女だったから、不平をいうわけでもなく、黙々と働いたらしい。


物事を善意に解釈せよ
父がこの調子で、一生遊んでいたら、いまの村内家はないわけだが、ある事件をきっかけに、父は人が変わったように真面目に生きるようになった。      


事件というのは、火事であった。八王子は絹の産地で、村内家でも毎年養蚕を行なっていた。若い年代の人にはわからないと思うが、養蚕は、座敷の畳を全部上げ、そこにかいこ棚をつくり、炭火で部屋を暖めて卵をふ化させる。


その棚が、暖房用の炭火に落ち、自宅が全焼してしまったのである。のちに、父は私(村内道昌)によくこういった。


「前日までは、いくら遊んでいても、地主の息子だから近所の人に旦那さんといわれていた。しかし、一夜明けると、焼け跡にむしろを敷いて、近所の人が炊き出してくれたおむすびを、ありがとうございますといって食べなければならない。一夜乞食とはこのことだなと思ったよ」


人生の厳しさが、そのときはじめて実感としてわかったと、父はよくいっていた。やがて、村内万助は家を建て直すが、それからは人が変わったように遊びをぴたりとやめ、家業に精を出すようになった。母にかわって、一生懸命田畑で働き、豚を飼った。母もそれまでの苦労が報われ、家庭も円満になった.


「結果的には、家が焼けたのはよかったんだ。あのままでは、のちのちまで大切なことがわからなかったろう」


と父はいう。なにか悪いことが起こると、多くの人は、気落ちしてダメになってしまう。しかし、父はそのとき、火事は自分に課せられた試練であろうと思ったという。現象的には大きな災難だが、それは自分がもっと優れた人間になるための試練であって、けっして、本当の災難ではないというわけである。物事を悪いほうへ悪いほうへ解釈していけば、自然に気が滅入って、自分がダメになってしまう。そうすると、本当に物事はどんどん悪いほうへ悪いほうへといってしまう。しかし、悪い出来事を、これは自分のために天が与えてくれた試練だと、善意に解釈してがんばれば、悪い出来事も人生の貴重な教訓になり、物事は良いほうへ良いほうへ向うというわけである。


「すべて、物事を善意に解釈する」


という言葉は、それ以来、村内家の家訓のひとつとなった。悪いことが起こったとき、それを「誰々のせいだ」などと他に責任を転嫁せず、自分の糧とせよということである。


父はまた、


「人間の真価というものは、逆境に立ったとき、はじめてわかる」


ともよくいった。逆境に立ったとき、くじけてしまうか、それとも、笑ってそれを受け止め、再出発ができるかどうかで、その人間の真価がわかるということである。


のちに、農地解放で土地を取り上げられたときも、村内万助にとっては大きな逆境に立たされたときだった。普通、地主が土地を取り上げられれば、それでおしまいである。あとは没落していくよりない。しかし、そのときも父はそれと試練を受け止め、のちに出てくる木工所をつくって、村内家具店の基礎をつくった。最悪の事態でさえ、他人のせいにせず笑って受け止め、再スタートを切るという父、万助の思想は、私が父から学んだ最大の教訓であり、いまの村内ホームセンターを支えている「村内精神」の根底にもなっている思想である。


物事をすべて善意に解釈できれば、悪い事が起こったときにも試練として受け止めることができる。逆境に立ち、それを天が与えた試練として受け止め、「なにくそ」という「負けじ魂」ではね返していけば、何物も怖くないのである。


さらに、物事を善意に解釈し、逆境に立ち向かっていけば、そこから自然に、真心とか奉仕という精神が生まれてくる。悪い事が起こったとき、他人のせいにしなければ、必然的に自分自身を振り返って見るはずである。自分のどこかに悪いところがあったのではないだろうか。それが、悪い結果を招いてしまったのではなかろうか。


この世は、人と人が協力しながら生きている世界である。そう考えていけば、真心で奉仕するほかに正しい道はないというところに必然的にたどりついてしまう。私はよく「百姓商法」という言葉をつかう.これはキャッチフレーズでも何でもない。村内はもともと百姓であるから、百姓の延長上で商売をしているということであり、百姓を売りものにしているわけではない。精神構造そのものが、何百年もの長い間、八王子で農業を営んできた人間のそれであるから、商売もまたその精神構造の上に構築されているということなのである。


男の子は泣くな

(村内道昌)は昭和五年生れ。村内万助が正子と結婚して十二年目にはじめて生まれた子供である。何かの因縁かもしれないが、父とは三回り違う、同じ七石金星の午年である。


ただ、私が父と違うのは、父ががっちりした体格で外向的な気質だったのに対して、私は長身で細く、性格も内向的というところである。どちらかといえば母親に似ているのである。


そんな私を見て、父はこの子は強く育てなければいけないと思ったらしい。たとえば、遊んでいてケガをしたり、年長の子供にいじめられたりして泣いて帰ると、


「男は泣くもんじゃない!」


と家に入れてくれない。幼い頃の私はどんなに痛くても、どんなにくやしくても歯を喰いしばっていなければならなかった。


また、虚弱体質で内気だったから、引っ込み思案になりがちだったが、父はそれを治そうと、昼休みの時間によく相撲を取ってくれた。


「男は攻撃精神が大切だ。ドンとぶつかってこい」


というわけである。そして、三度に一度はわざと負けてくれることも忘れなかった。


相撲だけでなく、父はなにかにつけて、私を一人立ちできる強い人間に育てようとした。たとえば、八王子市内に買物に行って、父と二人で七キロの山道を帰る途中日が暮れた。すると父は、


「急に用事を思い出したので一人で帰りなさい」


という。私は真暗な山道を一人で帰ったのだが、その恐ろしかったことはいまでも忘れられない。いまのように舗装された明るい道ではない。人っ子一人通らない峠の細道である。


「お化けや幽霊なんか絶対にいないんだ」


と私は自分にいいきかせながら峠を越えて家へ帰った。ところが、父は用事を思い出したわけではなかった。私に自立心をつけるために先に歩かせ、自分は後からそっとついてきて見守っていたのである。怖いながらもなんとか自分で家へ帰りついたので父には大いにほめられたが、怖さのあまり足がすくんで動けなくなったら「コラッ、男のくせに」と叱られるところだった。


父にひどく叱られた思い出がひとつある。小学絞に入る前の年、小学校の運動会を見にいったときのことである。


運動会では、未就学児を対象にした「宝拾い」というゲームがあって、私もそこに出されたのだが、たくさんの人が見ている校庭の真中に出されたとたんに足がすくんで動けなくなってしまった。内気だったから、先生が「あそこまでいってお菓子の袋を持ってきなさい」といっても、一歩も足が前へ出ない。とうとう先生が袋を拾ってきて私に渡してくれた。


ところが、それからが大変だった。家へ帰ると父が待構えていて、


「コラッ! おまえはそれでも男か」


とカミナリを落したのである。それはもう恐ろしいケンマクで、


「いまから、学校へ行って、皆が見ている前で校庭を三周走ってこい。グランドを三周してこなかったら家へ入れないぞ」


というのである。家へ入れてもらえなかったら困るから、私は泣きながら校門をくぐり、目をつむって無我夢中でグランドを三周した。運動会の競技をしているところへ変な男の子が入ってきて、泣きながら走ったのだから、見物人もびっくりしたに違いない。しかし私のはうも「走って来なかったら家の子じゃない」といわれているのだから必死であった。


夢中で三周して家へ帰ると、あれほど怖い顔をしていた父がニコニコしていた。


「よくやった。お前は偉い」


というのである。


内気で虚弱児だった私に対する父の教育はざっとこんな調子だった。一人息子だからデキが悪くては困る。周囲はともすれば甘やかしがちである。それでは大人になってから大変だ。


「突撃精神」「攻撃精神」を育て、過度の内気を克服させ、体力をつける。スパルタ教育で自立できる子供をつくるというのが父の教育方針だったのである。


小学生の頃、父の名代で何かの寄合いに出されたことさえあった。お祝いを持って、京王線に乗り、調布に行き、父にいわれた通りお祝いの言葉をいって帰ってくるわけだが、向うは父の名代というので上座へ座らせて酒まで出されたりする。これもやはり教育のひとつだったようだが、子供の私としては緊張のしっぱなしだった。ちゃんとやって帰らないと父のカミナリが落ちるのだから、酒まで飲めとはいわれないにしても大変であった。


村内道昌一代記「村内まごころ商法 & 剛毅の経営」より引用


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三菱創業者 岩崎彌太郎像、高島石炭資料館など長崎県 高島炭鉱めぐり

「黒ダイヤ」のように輝く岩崎弥太郎の像は風頭公園の坂本龍馬像の作者である彫刻家・山崎和国さんの作品♪♪ 岩崎彌太郎と高島炭坑の出会い&岩崎彌太郎関係年表あり

高島の岩崎彌太郎之像(いわさきやたろうぞう)


高島の地図(長崎さるく モデルコース)
令和3年(2021年) 4月25日 村内伸弘撮影


高島港に着きましたー
世界遺産の島にとうとう降り立ちました。


高島界隈 長崎さるく モデルコース



高島の玄関口ですので、大きな看板がありました

世界文化遺産 明治日本の産業革命遺産  九州・山口と関連地域


そうです!高島炭鉱は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(全23資産)の構成資産なのです!世界遺産ですよ、世界遺産!!



写真右上にご注目。僕が乗ってきた鷹巣号、高島港から出航していきました

高島港


地図もだいたい頭に入ったので、島内を歩いて回ります
実はレンタサイクルを借りる予定だったんですが、もう全部貸しちゃったって言われてしまいました。トホホホ・・・


まあ、がんばって歩きますよ。歩くのも気持ちいいし


空がとにかく青いです!!最高の気分です!!!!!!

高島節
島と名がつきゃ どの島も可愛い まして まして 高島なお可愛い
わたしゃ高島の 埋も木娘 いつか いつか世に出て 炭となる
揮毫  藤村 正哉


岩崎弥太郎の銅像までは港から歩いてすぐでした

三菱創業者岩崎彌太郎之像(高島炭坑を大炭鉱へと導いた三菱の創業者 岩崎弥太郎)
岩崎弥太郎の像は風頭公園の坂本龍馬像の作者である彫刻家・山崎和国さんの作品です、共に国家のために命を捧げた龍馬と並べてあげたいですね♪♪


人差し指を力強く差し出す岩崎弥太郎


以前訪れた旧木型場の岩崎弥太郎像も人差し指を立ててましたけど、弥太郎はこのポーズが好きだったのかな?(謎)

世界文化遺産 三菱重工長崎造船所史料館(旧木型場)の岩崎弥太郎像

三菱重工長崎造船所史料館(旧木型場)の岩崎弥太郎像

平成30年(2018年)7月23日 村内伸弘撮影


このポーズから何を感じるかは、それぞれです。


この決意に満ちた弥太郎の姿から何を感じるかは、人それぞれです。

僕は、覚悟を決めた男の "志"を強く感じました!高島に来て、本当に良かったです!!


斜め後ろから見た三菱創業者岩崎彌太郎の像


斜め後ろ下から見た岩崎彌太郎之像


風頭公園の坂本龍馬像で有名な彫刻家・山崎和国さんの作品です


弥太郎の影と僕・村内伸弘の影


この銅像は、近代日本の礎となった「炭鉱」の町 高島町の誇るべき歴史と、高島炭坑を開発し、日本の発展の原動力になった三菱の創業者 岩崎彌太郎の功績を、末永く後世に伝えるために制作したものである。
平成16年12月吉日 高島町長 豊田定光


銘板揮毫者 三菱マテリアル株式会社 取締役社長 井手明彦
制作者 日展会員 山﨑和國


岩崎彌太郎と高島


岩崎彌太郎は、天保5年12月11日(1835年1月9日)、土佐の井ノロ村(現在の高知県安芸市)に生まれた。幼少のころから学問に秀で、19歳のとき江戸に出て安積艮斎の下で漢学の研鑽を積んだ。土佐に戻って吉田東洋(土佐藩の開明派)の門に入り、一旦は藩職に取り立てられ長崎で海外事情調査に従事、その後、帰郷して待命生活を送る。


慶応3年(1867年)、32歳。藩命で土佐藩の開成館長崎出張所に赴任した。土佐産品の販売や武器艦船の購入にあたるかたわら坂本龍馬の海援隊を支援する。明治2年(1869年)に大阪に移り、翌3年九十九商会を設立、藩営事業の海運業を継承した。九十九商会はやがて三菱と名を改め今日の三菱グループに発展していくのだが、高島炭坑は明治14年(1881年)3月に買収した。


高島炭坑は、江戸時代中期以降佐賀藩が採掘していた。幕末に英国人トーマス・B・グラバーをパートナーにして近代的操業を試みたが、明治3年にグラバー商会が倒産してしまい行き詰まった。明治7年以降は後藤象二郎の蓬萊社が払下げを受け操業したが、やはり資金燥りに窮してしまった。見かねた福沢諭吉と大隈重信が、日の出の勢いの岩崎彌太郎に炭抗の買取りを進言した。


それが岩崎彌太郎と高島炭坑の出会いである。


当初、高島炭坑は、150万トンの炭量とわずか 8年の炭命と見られていたが、関係者の創意と工夫と努力とによって 105年間操業を続け、昭和61年(1986年)11月27日に閉山するまでに、実に 5500万トンの出炭を記録した。


海運業を興し、鉱業・造船とその活動の範囲を拡大していった岩崎彌太郎の経営哲学は、「期するは社会への貢献」すなわち事業を通じて国や人々に尽すことにあった。激しく燃えるように常に全力で事業に取り組んだ岩崎彌太郎は、日本の近代化に多大な貢献をし、明治18年(1885年)2月7日、満50歳でこの世を去った。その精神は、今も燃える「黒ダイヤ」のように輝いている。


岩崎彌太郎関係年表

天保5年12月11日(1835.1.9) 岩崎彌太郎 土佐国安芸郡井ノロ村に生まれる

天保6年11月15日(1836.1.3) 坂本龍馬 生まれる

嘉永1年(1848年) 13才 高知の岡本寧浦の塾に学ぶ

嘉水6年(1853年) ペリー来航

安政2年(1854年) 19才 江戸遊学、安積艮斎に学ぶ

安政5年(1858年) 23才 吉田東洋の門に入る

安政6年(1859年) 24才 藩職につき長崎に派遣される。トーマス・プレーク・グラバー長崎に来る

元治1年(1864年) 長崎グラバー邸完成

慶応3年(1867年) 32才 開成館長崎出張所に赴任。10月 大政奉選。11月 坂本龍馬 暗殺される

慶応4年(1868年) 高島炭坑が佐賀藩とグラバーの合弁会社となる

明治2年(1869年) 北渓井坑が英国人技師モーリスにより開坑される

明治3年(1870年) 35才 九十九商会を設立

明治4年(1871年) 廃藩置県施行

明治7年(1874年) 1月 高島炭坑が官営となる。11月 高島炭坑が後藤象二郎「蓬萊社」に払下げられる

明治14年(1881年) 46才 3月 高島炭坑を買収

明治18年(1885年) 50才 2月7日病没

明治20年(1887年) 日本最初の鋼鉄船夕顔丸が進水

明治23年(1890年) 8月 三菱が端島炭坑を鍋島孫六郎から買収

昭和49年(1974年) 1月 端島砿閉山

昭和61年(1986年) 11月 高島炭砿閉山



岩崎弥太郎の精神は今も燃える「黒ダイヤ」のように輝いている。


岩崎弥太郎の肖像


明治18年(1885年)2月7日に 50才で病没しているってことなので、現在 53歳の僕から見れば年下ですよね、この写真の弥太郎も。。。



岩崎彌太郎之像周辺地図


ちょっとピンボケですが 笑

弥太郎、ありがとう!僕もガンバルよ!!


弥太郎像の真ん前に軍艦島の模型がありました

端島(軍艦島)の模型



軍艦島は上陸したことはないんですが、長崎・大浦の軍艦島デジタルミュージアムと長崎・野母崎の軍艦島資料館の 2ヵ所を回って勉強したのでこの模型を見ればいろいろよく理解できます


今度は上陸しようかな~
風化が進むのは間違いないので、今のうちだよね。軍艦島に上陸するならば・・・


当時世界一だった軍艦島の人口密度。この模型見れば一発で納得できます 笑


軍艦島の模型の真横に石炭資料館もあったので入ってみます

高島石炭資料館
この石炭資料館は三菱高島炭砿労働組合の事務所として昭和34年(1959年)に建築された建物を、石炭資料館として整備、改築したようです


高島石炭資料館は明治、大正、昭和に渡って長年操業してきた高島炭抗の歴史を後世に伝えることを目的として、昭和63年(1988年)に三菱高島炭抗労働組合跡に設置されました。1階には高島炭抗のあゆみを分かりやすく展示した歴史資料をはじめ、実際に使用されたトロッコや人車、採炭機械、坑内坑道の立体模型などが展示されており、高島炭抗の高い技術力が伝わってきます。また 2階には高島での暮らしを伝える生活用品や端島炭抗の資料を展示。資料館前の広場には端島の模型も設置されており、操業当時の島の様子を今に伝えています。

長崎市公式観光サイト「 あっ!とながさき」より引用


高島炭坑のあゆみ


昭和12年、満州事変後の「黒ダイヤ景気」というのが気になりますね!名前がすごい!黒ダイヤ景気ですから~


石炭資料館のメインはやっぱり三菱!そして岩崎弥太郎!!

高島炭坑と関わりのある人々

三菱の創業者 岩崎弥太郎(いわさき やたろう)

1870年(明治3年)のグラバー商会倒産後、高島炭坑の権利が外国商社に移るのを防ぐため、明治政府は 1874年(明治7年)に高島炭坑を官有にして経営を引き継ぎました。しかし、政府による経営も苦しかったので、炭坑を後藤象二郎に払い下げました。


高島炭坑は官有から再び民間へ経営が移り、同年11月に「後藤炭坑舎」として操業が開始されました。1875年(明治8年)、南洋井坑でガス爆発がおき、翌年には北渓井坑の廃坑、さらに坑夫の暴動などがおこり、後藤象二郎の経営も立ちゆかなくなりました


■岩崎弥太郎による経営

1881年(明治14年)、岩崎弥太郎は、後藤象二郎の借金など約97万余円を肩代わりして高島炭坑を譲り受け、「高島炭坑事務所」として本格的な炭坑経営に乗り出しました。


弥太郎は、後藤象二郎の失敗をくり返さないように、社内の鉱山関係の知能を集結させました。


■日本一長い操業

1869年(明治2年)、北渓井坑の開坑に始まった高島炭硫の歴史は、1986年(昭和61年)の閉山まで 117年間も続きました。これは日本一長い操業期間です。その間、高島炭硫は石炭を採掘し、日本経済の近代化と成長を支えてきました。


「社内の鉱山関係の知能を集結させました。」ってところに弥太郎の経営社としての才覚を強く感じます!"知能を集結"、いい言葉だなー



岩崎弥太郎(1834〜1885)

土佐藩士。土佐藩の貿易に従事し、明治維新後、土佐藩の借金を肩代わりして船2隻を入手、海運業を始めました。三菱商会として政府の輸入船を任され、軍事輸送にあたるなど国内の海運を独占しました。しかし政府が 1881年(明治14年)に共同運輸会社を設立したため合併を強いられ、海運業を失いました。


後藤象二郎(1838〜1897)

土佐藩士。土佐藩の武器や物資の輸出入を扱う「開成館」奉行を勤め、明治維新後、大阪府知事などを経て 1871(明治4)年から「蓬莱社」を経営しました。そして借金を返済するため政府に 55万円を払って許可を得、炭坑経営に乗り出しました。


スリーダイヤ!三菱マークの由来


いつも思いますけど、このスリーダイヤの三菱マークは日本で一番有名なマークの一つじゃないでしょうか?日本企業でコレより有名なマークをあなたは知ってますか?


でも最近はセブンイレブンとか黒ネコヤマトとかの方が有名かな 笑



経営を拡大した三菱


高島の位置


開坑の祖 グラバーと松林源蔵


日本最初の洋式立坑


石炭資料館の蔵書の一部

時間があったら全部読みたいタイトルばかりです(笑)


昔の高島の風景でしょうか?


炭鉱で働いていた方を探しています! 経済産業省 石炭保安室
「炭鉱でじん肺に罹患された方及びじん肺によりお亡くなりになられた方の相続人の皆様へ損害賠償金をお支払します。」だって~


石炭って何だ?コレ意外と知らないかもw

石炭とは?


高島炭砿坑内外図


これから訪ねる予定の世界遺産 高島炭鉱跡 北渓井坑跡のパンフレットが置いてありました


石炭(北渓井坑跡出土遺物)


世界文化遺産 国指定史跡 高島炭鉱跡 北渓井坑跡


日々是好日


操業中の北渓井坑 明治初期




石炭資料館、係の人含め誰一人いなかったんですが、逆にジックリ見られて面白かったです 笑


炭車や採炭機械が屋外(資料館前)に飾ってありました

この炭車に採掘した石炭が満載されていた往時を思うと感慨です



"炭鉱の島"&"世界遺産の島" 高島一周徒歩の旅(笑)は続きます


▼今回の五島・長崎旅行
東京遊覧飛行&富士山真っ白 五島旅行スタート!ソラシドエアで長崎へ
長崎空港箕島大橋を徒歩で渡る。長崎空港マリンターミナルの出航シーンも。
天正遣欧少年使節顕彰之像(長崎 森園公園)と箕島大橋の長崎名所タイルパネル
ORCオリエンタルエアブリッジのターボプロップ旅客機で福江島 五島つばき空港へ
五島バス(路線バス)で下五島の玄関口 福江港ターミナルへ
五島港公園から福江市街散策、五島牛100%ハンバーガーにありつく
日本唯一の海城!福江城跡(石田城跡/長崎県立五島高校)は三方が海に臨む日本で唯一つの海城
福江武家屋敷通りの黒い溶岩の石垣が続く風情。江戸時代の長崎県五島福江島のたたずまい
福江散歩 明人堂、六角井、倭寇・王直ゆかりの地、ナタオレノキ etc
EV(電気自動車)で五島福江島ドライブ!鬼岳、鐙瀬熔岩海岸などの島風景が美しい
西の高野山 大宝寺は弘法大師(空海)ゆかりの地、大宝浦(大宝の浜)が目の前に広がっていた
武者のぼり 長崎県五島 福江島井持浦の端午の節句、人生初電気自動車チャージ
井持浦教会のルルドの泉参拝。井持浦ルルドの聖母マリア像がお美しい。
大瀬崎断崖と大瀬崎灯台、立谷教会跡地(無原罪の聖母像)、名もなきキリシタン墓地
五島玉之浦ドライブ♪♪ 玉之浦港、玉之浦椿発見の地周辺、高浜海水浴場など
五島福江島 空海記念碑 辞本涯の碑、渕ノ元カトリック墓碑群のマリアさま
堂崎天主堂(堂崎教会)。アルメイダ、マルマン神父、ペルー神父、聖ヨハネ五島らの物語が息づく美しい教会
日本三大うどん!五島うどんを本場五島で~ ヒラスとシビマグロの握りもいただきました~♪♪
ガイド付き 五島列島キリシタン物語ツアー ~久賀島・奈留島編~で世界遺産の島へ
世界遺産の島 久賀島の集落 浜脇教会、五島崩れの牢屋の窄殉教地(ろうやのさこ)など
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海上タクシーで久賀島から奈留島へ。奈留港を散歩。
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玉之浦椿の楊枝入れのお土産を福江港ターミナルで買いました♪♪
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世界文化遺産 三菱重工長崎造船所史料館(旧木型場)の内部

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三菱重工長崎造船所本工場&青い海!神の島教会下バス停行きの長崎バスの車窓

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満開!夾竹桃の花(キョウチクトウの花)!夏を彩るうつくしい花

情熱の花木!夏の花!平和の花! キョウチクトウが満開です!

満開の夾竹桃の花(キョウチクトウの花)


青空と夾竹桃の花
令和3年(2021年)8月1日 村内伸弘撮影


青空と夾竹桃の花
令和3年(2021年)8月4日 村内伸弘撮影


夾竹桃の蕾(つぼみ)
令和3年(2021年)7月22日 村内伸弘撮影


夾竹桃の球(ボール)
令和3年(2021年)7月31日 村内伸弘撮影



6月12日に開花した夾竹桃(キョウチクトウ)の花。梅雨が明け、本格的な夏の到来と共に次から次へと花を咲かせています!!


ヒロシマとナガサキの復興のシンボルでもある夾竹桃。
ぜひこのうつくしい咲きっぷりをご覧ください♪♪


▼6月28日の夾竹桃

どんどん花が開いています


夏の花 夾竹桃は青空が似合います



▼6月28日夜の夾竹桃

夜 外灯の灯りに照らされる夾竹桃もうつくしいです!!



▼6月30日の夾竹桃

小指ぐらいの挿し穂をこの場所に植え付けてから 4年、ものすごい急成長でこんなに大きくなりました。僕の身長(175cm)よりもすでにぜんぜん高いです!



▼7月2日の夾竹桃


▼7月18日の夾竹桃

咲いている花もあれば、まだ蕾の部分もあります


▼7月22日の夾竹桃

夾竹桃の蕾(つぼみ)


濃紅色が鮮烈です!


力強く濃い紅色が感動的です♪♪



▼7月23日の夾竹桃

猛暑の毎日でも元気に咲いています!インド原産の夾竹桃は暑さにまったく負けません!丈夫です!たくましいです!!


▼7月24日の夾竹桃


▼7月25日の夾竹桃

写真の左側に僕の左手が写ってます。幹をつかまえて、下に下げないと写真が撮れません 笑


夾竹桃、可憐に咲いています


夏の青空が夾竹桃にはホント似合います!


▼7月31日の夾竹桃

真上から見た夾竹桃
脚立を持ち出して、脚立の上に乗り真上から撮りました



うわっ!夾竹桃の花束の完成~♪♪

すばらしい!!


波打つような花びらが優雅でビューティフル!



▼8月1日の夾竹桃

真上から見た夾竹桃
昨日より更に高い脚立を準備して撮りました


まあ、強健ですよ。夾竹桃は、このまま育てるとあっという間に木になっちゃいそうな勢いです!パワフルです!!


脚立に乗らないと見られない光景ですが、すっごく鮮やかですね!


脚立の一番上からパチリ♪♪


令和3年の夏、夾竹桃の夏。


八重咲きが本当にキレイです!


濃く深い緑色の葉っぱとの対比がめちゃめちゃヴィヴィッドです♪♪


美しい彩り


東京オリンピック開催中~☆ 脚立の脚の下に敷いた新聞紙に伊藤美誠ちゃんと村上茉愛ちゃんが写ってました(^^)



さあ、最後に比較してみてください。

▼4年前の植え替え写真

平成29年(2017年)9月22日 植え替え時の夾竹桃

すごい生長ぶりでしょ~



▼8月1日夕方の夾竹桃

曽祖父の命日である 8月1日 17:45頃、灼熱の夏の夕陽を浴びる夾竹桃の花


シャッターチャンス!!夏の夕陽が夾竹桃にダイレクトにあったっていました!


ものすごい色です!!


夾竹桃の花、壮絶に咲いています!!


▼8月4日早朝の夾竹桃

8月4日 5:55頃、夏の青空をバックに咲き誇る夾竹桃の花


朝目覚めて、このうつくしい瞬間を目にしたので急いで写真をバチャバチャ撮りました!


朝の陽の光を受けて、見事に咲き乱れる夾竹桃



今年もまたヒロシマとナガサキに原爆が投下された日が巡ってきます。この夾竹桃の花は廃墟になった街でいち早く咲き、打ちひしがれた人々に勇気と希望を与えた花なのです。平和の花 夾竹桃がうつくしく咲く令和3年の夏。すばらしいです!!!!!



(おまけ)

百日紅(さるすべり) ペパーミントレース/夏祭り
令和3年(2021年) 7月13日 村内伸弘撮影


百日紅(さるすべり) ペパーミントレース/夏祭り
令和3年(2021年) 7月22日 村内伸弘撮影


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太宰治も植えた!夾竹桃(キョウチクトウ)の葉っぱがドンドン出てきて増えてます


木になる木。育つ育つ夾竹桃(キョウチクトウ)の木!順調に生長中

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緑色の芸術!春から初夏の夾竹桃(キョウチクトウ)、今年も元気元気!

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咲き乱れる夾竹桃(キョウチクトウ)の花

平和の象徴の花!広島市の市の花・夾竹桃(キョウチクトウ)の花


花芽分化!夾竹桃(キョウチクトウ)の花芽=花が咲く芽ができました!


害虫?長梅雨?夾竹桃(キョウチクトウ)の花芽=花が咲く芽が枯れました!


夾竹桃の花(キョウチクトウの花)が咲きました!とうとう花開きました!!

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