長崎・風頭公園 坂本龍馬の銅像&司馬遼太郎「竜馬がゆく」文学碑
竜馬は胸の踊るような思いを抑えかね「長崎はわしの希望じゃ」と言った。長崎港を見おろす巨大な龍馬像、カッコ良かったです!風にはためく紅白の海援隊旗もカッコ良かったです!!
風頭公園(かざがしらこうえん)の坂本龍馬之像
腕を組み、袴にブーツ姿の坂本龍馬
坂本龍馬「長崎はわしの希望じゃ」
平成31年(2019年)3月2日 村内伸弘撮影
坂本龍馬と長崎
坂本龍馬は天保6年(1835年)、土佐高知城下に生まれました。江戸で剣術や砲術等を修業したのち、武市半平太らが結成した土佐勤王党に加盟し政治活動を始めました。
文久2年(1862年)に土佐を脱藩し、幕臣・勝海舟に師事して航海術を学びます。慶応元年(1865年)には長崎で「亀山社中」(のちの海援隊)を結成し、「薩長連合」や「大政奉還」といった大きな足跡を幕末の歴史に残しました。慶応3年(1867年)11月、維新を目前にして京都河原町の近江屋二階で暗殺され、その波乱に満ちた生涯を閉じました。
当地長崎は、龍馬が最も活躍した慶応年間にその本拠を置いたところであり、今もゆかりの史跡が数多く残されています。
亀山社中記念館パンフレットより引用
坂本龍馬って高知とか京都のイメージが強いんですが、調べてみると、たった 33年間の短い人生ですが長崎を拠点をして活躍していた期間が意外と長いんです。長崎は龍馬の街と言い切ってしまっていいんだと思います。
なにしろ
「長崎はわしの希望じゃ」
って「竜馬がゆく」の中で龍馬自身が言ってるわけですからね!
それでは、超有名な風頭公園の坂本龍馬像に会いにいきましょう♪♪
風頭山バス停からの地図
風頭公園(かざがしらこうえん)
苔むす墓石
公園というイメージじゃないですね!ここ風頭公園は歴史が詰まった場所のようです
唐通事の墓 林・官梅家墓地
阿蘭陀通詞墓地
阿蘭陀通詞加福家墓地
坂本龍馬之像に近づいています
赤と白、二曳(にびき)の海援隊旗カラーがよく目立ちます!
"日本初の職業写真家(プロカメラマン)" 上野彦馬の墓
坂本龍馬や桂小五郎、高杉晋作、グラバーなどなど幕末や明治初期の有名人、著名人をたくさん撮った上野彦馬のお墓です。龍馬像に行く前に、彦馬のお墓にお参りします。
右の石柱に「日本写真界の始祖 上野彦馬先生墓地参道」と書かれています
あった~
上野家墓地(上野彦馬の墓)
上野家は絵師の家系であり、絵画、鋳金などに秀でていた。幕末の当主俊之丞、彦馬(1838年~1904年)父子は 2代にわたり、写真技術の習得と普及に多大の功績を挙げ、わが国の近代化学研究の発展に寄与した。彦馬は日本最初の職業写真家として著名であり、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)たちを撮影したことでも知られている。
ハイ、高杉晋作、桂小五郎以外にも坂本龍馬や村内伸弘も撮ってますよ 笑
上野彦馬墓
長崎は実に多くの著名人が生まれ、活躍しています。上野彦馬はその筆頭です!
長崎歴史探訪路
風頭公園の坂本龍馬像
ジャーーーーン!!!!
風頭公園の坂本龍馬像~☆
長崎在住の彫刻家・山﨑和國氏の制作
っていうか、この腕組み姿カッコ良すぎませんか!
目力もすごっ!
威風堂々!幕末の志士・坂本龍馬!!
赤白赤で「二曳(にびき)」と呼ばれる海援隊旗もひるがえっています!
龍馬像の前でよちよち歩きしているちっちゃな女の子が微笑ましいですね。もし生身の龍馬がいたらすぐに駆け寄って抱っこしたんじゃないかとか想像しちゃいました。
土佐弁で「かわいいぜよ」とかね 笑
ちょうど正午でどこからともなく鐘の音が聞こえてきました。
ああ、ここは長崎なんだ。
僕は今長崎にいるんだ。
ほんとカッコイイ~!!龍馬ファン必見の銅像ですよ、コレは!!
豪快で自由な雰囲気がプンプンと漂っている銅像でスケールがデカイ!
龍馬は長崎港を見ているのではなく、その先に広がる大海原を見つめているそうです!
この銅像は龍馬の銅像建つうで会の呼び掛けに賛同した長崎を始めとする全国の有志から寄せられた資金により建立されたものであり、未来を担う青少年達へのメッセージである
制作者 山﨑 和國
題字 宮地 佐一郎
司馬遼太郎「竜馬がゆく」文学碑
船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、
「長崎はわしの希望じゃ」
と、陸奥陽之助にいった。
「やがては日本回天の足場になる」
ともいった。
司馬遼太郎「龍馬がゆく」より
長崎はわしの希望じゃ
しっかし、司馬遼太郎も歴史上の人物に見事なセリフを言わせますよね!司馬遼太郎の綿密な調査や時代考証に基づくイマジネーションにはいつも脱帽させられます!この碑、司馬ファン必見ですよ~
昔は維新三傑って言って、明治維新っていったら「西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允」の 3人だったんです。
でも、司馬遼太郎のこの「竜馬がゆく」によって坂本龍馬は全国区になり、一気に日本史上でも人気ナンバーワンの人物に駆け上ったわけです。
小河ドラマ「龍馬がくる」ってドラマがあったんで、ちょっと前に見たんですが、めちゃくちゃ面白かったです!こんなこと龍馬像の記事で書くと怒られるかもしれませんが、このドラマの中の龍馬はスーパースターでもなく、カリスマでもなく、今の僕たちが持っている龍馬のイメージとはぜんぜん違う人物でした。有名なエピソードを龍馬自身が「わしゃ知らん」とか「わしゃやってないきに」とか思いっきり否定してました(笑)
もはや実像が見えなくなってしまっている龍馬ですが、いろいろな作家や脚本家たちに弄ばれるのも龍馬の器の大きさかもしれませんねっ!
風頭公園展望台
風頭公園展望台
標高152mの風頭山の山頂部に位置する公園で、こちらの展望台のほか、園内最高峰の芝生広場などからも長崎港方向のパノラマが鑑賞できます。亀山社中跡や龍馬が駆け抜けた寺町を眼下に、長崎県庁から長崎市役所、ビル群がひしめく観光通り等の賑やかな町並みが広がります。さらに、長崎港の左右の丘陵地帯には道路照明や住宅光による星のような夜景。長崎の発展をリアルに感じられ、龍馬が夢見た未来の長崎の姿がここにあります。
ここからは長崎市内が一望できます!写真右、長崎港や女神大橋も写っています。ワンダフル長崎!ビューティフル長崎!
風頭公園 展望台
龍馬像からすぐ近くの展望台に移動しました
写真左、龍馬像が小さく見えています。その奥には長崎港が見えています!
絶景です!
曇っているのが残念です。。。
今度は夜景を見に来てみたいですね
風頭山(かざがしらやま)からの夜景
風頭山からの夜景
夜景にも様々な個性があります。長崎の夜景は、主に山に沿って立ち並ぶ家々からもれる小さくてあたたかい光がつくる夜景です。長崎出身の歌手・さだまさし氏は「長崎小夜曲」の中で、この光を「宝石箱」にたとえました。長崎駅より東方 3kmに位置する風頭山(標高151.9m)からは、長崎らしい入り組んだ複雑な地形が分かる夜景と眺めが特徴
です。長崎市内には風頭山のほかに、1000万ドルの夜景と激賞される稲佐山のほか、鍋冠山などから美しい夜景を見ることができます。
坂本龍馬 元治元年(1864)初めて長崎に来る
坂本龍馬 元治元年(1864)初めて長崎に来る
長州藩が文久3年(1863年)5月10日、攘夷の勅令・幕命を守って下関砲台からアメリカ船ペムブローク号を砲撃し、勝海舟の説得も効果なく、翌元治元年 8月5日、英・米・佛・蘭四ヶ国連合艦隊が下関の諸砲台を攻撃・占拠する事件があった。
幕府は四ヶ国の下関攻撃を阻止すべく、元治元年 2月軍艦奉行並の勝海舟を長崎に派遣した。このとき勝に随行したのが坂本龍馬のほか千屋寅之助(菅野覚兵衛)・望月亀弥太・近藤長次郎(上杉宗次郎)らであって、彼らは小舟の漕手となり、勝を長崎港内の各国軍艦に伴った。
龍馬らは、海舟から長崎海軍伝習所の話を何度となく聞かされた。
「龍馬、今日の会談も終わったが、チト陸手に近づいてみんか・・・・。この岬は大鳥崎といってナ、烏が羽をひろげた形だ。」「ナールホド、勝先生。出っ張りの樹木の茂りが大鳥の頭ですラア・・・・・」
「海軍伝習は 9年前の安政2年(1855年)に始まったんじゃが、安政3年から西洋銃の調練もやるようになってナ。ホレ、そこを曲ったところの築地に石垣で囲った畑があるじゃろう。幅 7間半・長さ 10間のその畑を借りてナ、そこが射的場だったのヨ。」
「大鳥のドテッ腹に打ち方をしたわけですナ。」
「伝習は一週間単位で、日曜が休みでナ。土曜の射撃調練が楽しみだったナァ。」
恐らく我国で曜日による教育を受けたのは長崎海軍伝習生が初めてであったろうし、海舟の「海軍歴史」によれば、科目は航海・船中帆前・船中大砲・船具・造船などのほか、算術・蘭語があり、土曜日は蒸気・歩兵調練・騎兵調練・船掃除となっており、騎兵調練は横に小さく「稲佐郷二テ」とあって、その内容は大鳥崎築地で行われた打方調練であったろう。
※記録によれば、元治元年の長崎入港外国船は軍艦・商船合計226隻にのぼっている。
軍艦・・・・ロシア 4隻・イギリス 13隻・オランダ 4隻・フランス 5隻・プロシア 1隻・スペインイン 1隻 計28隻
商船・・・・イギリス 127隻・アメリカ 27隻・オランダ 12隻・フランス 14隻・プロシア 16隻・ドイツ 1隻・デンマーク 1隻 計198隻
龍馬らが、元治元年 2月23日に長崎入りし、(往復とも陸路島原経由 熊本の横井小楠訪問)4月4日に出発するまで滞在 40日間、長崎港は外国艦船であふれていたのである。
龍馬は一年後の慶応元年、この風頭山の中腹伊良林の地に亀山社中(慶応3年に海援隊)を起こす。
龍馬が外船購入を依頼したトーマス・グラバーの邸宅は大浦川左岸の南山手に、その商会は大浦居留地の2番・5番・12番等にあった。そのグラバー商会の北側(写真では右側)に、龍馬が才谷梅太郎の名で立会ったイカルス号事件長崎裁判の運上所があった。現長崎市民病院の地である。
海援隊士嫌疑が解消したこの裁判の後、龍馬は芸州藩船震天丸を借り慶応3年 9月18日に長崎を離れる。龍馬は 2ヶ月後の京都・近江屋の悲劇を知るよしもなかったのであった。
(文責 松竹 秀雄)
龍馬の青春!長崎の青春!!
あゝ・・・
▼今回の長崎旅行
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