世界文化遺産 原城跡 - 天草四郎の墓碑・天草四郎の像
島原の乱の主戦場!原城本丸の天草四郎の墓と天草四郎の像の前で祈りました
神の子「天草四郎」
原城跡(はらじょうあと)に建つ天草四郎の像
昭和48年(1972年) 北村西望 90歳の時の作品
平成30年(2018年) 8月26日 村内伸弘撮影
▼長崎歴史文化博物館の説明
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島原・天草一揆の経過
原城航空写真
島原・天草地方の領民が益田時貞(天草四郎)を首領におこした一揆で、寛永14年10月(1637年12月)に始まりました。天草を中心に戦闘が始まり、11月になると一揆勢は当時廃城だった原城に籠城しました。幕府軍 12万6千人に対し一揆勢は 3万7千人だったといわれています。幕府軍が兵糧攻めの持久戦に持ち込むと、一揆勢はしだいに弱体化し、寛永15年2月(1638年4月)幕府軍の総攻撃で一揆は終息しました。
動画制作: 村内伸弘(ムラウチドットコム)
動画制作: 村内伸弘(ムラウチドットコム)
原城本丸の入口
空濠(からぼり)
原城跡
国指定史跡 原城跡
原城は、戦国時代の有馬氏の重要な城であり、1637年(寛永14年)に勃発した島原・天草一揆の舞台となった城である。
城は、海岸に突き出した丘に築かれ、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、鳩山出丸などから構成されていた。周囲は約4km、東は有明海、西と北は一部をのぞいて低湿地に囲まれた天然の要害であった。本丸は石垣で囲まれ出入口は桝形となり、織田信長や豊臣秀吉の時代に完成された石積み技術が用いられ、近世城郭の特徴をもった。その特徴は、高い石垣、建物に瓦を使用、建物を礎石上に備えていた点である。一方、二の丸、三の丸は自然の地形を活かした土づくりであった。
原城の工事は、1599年(慶長4年)にはじまり、1604年(慶長9年)に完成したとされる。イエズス会宣教師の報告書は、文禄・慶長の役後に有馬晴信が居住している日野江城よりも一層適地にして、堅固で防御できるような新しい城を築城中であるとし、城内には晴信の屋敷のほか、家臣の屋敷、弾薬や食糧を蓄えた三層の櫓があったと記した。
1614年(慶長19年)に晴信の子、直純は日向国臼杵郡(宮崎県延岡市)に転封となり、原城は、翌年に発令された一国一城令によって廃城となった。
1992年(平成4年)から実施している発掘調査によって、本丸地区から多くの遺構・遺物が出土した。特に、十字架、メダイ、ロザリオの珠などのキリシタン関係遺物は、島原・天草一揆にまつわる資料である。また一揆後、幕府軍により壊され埋められた出入口や櫓台石垣、本丸の正面玄関に相当する出入口などが検出され、原城築城時の遺構や島原・天草一揆に対した幕府の対応を示す資料を発見した。
原城跡は1938年(昭和13年)5月30日、国指定史跡となった。
ホネカミ地蔵
ホネカミ地蔵
島原・天草一揆の終結(1638年)より 130年ほど後の明和3年(1766年)、北有馬村願心寺の住職注誉上人と南有馬村の庄屋乙名らが、原城跡に残されていた遺骨を敵味方の区別なく拾い集め、供養した地蔵塔です。石碑の正面には「三界万霊乃至平等 南無阿弥陀仏 骨塔 明和三戊七月十五日」とあり、側面には願主の名前が刻まれています。
原城跡に残されていた遺骨を敵味方の区別なく拾い集め
すばらしいですね!
まさにこれぞ仏教です。注誉上人と乙名さんの精神は崇高です。
ピンクのサルスベリが満開~ぃ
埋門跡
有明海(島原湾)がキレイです!
すっごくキレイです!!
原城VR(ストリートミュージアム)
結構みんなやってました!
本丸門跡
南島原の世界遺産候補を訪ねる旅
南島原市には、平成19年1月「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、世界遺産暫定一覧表に登録された「原城跡」・「日野江城跡」・「吉利支丹墓碑」があります。「原城跡」以外の、南島原のキリスト教関連遺産を訪れてみてはいかがですか。
まだ看板が世界遺産登録前の状態のようです。
「島原の乱」諸軍の配置図 原城攻防布陣略図
破却された石垣
破却された石垣
キリシタンの痕跡やこの一揆の歴史を残さないように幕府は原城を徹底的に破壊し、一揆軍 3万7千人は一人残らず虐殺されて、この城にまとめて埋められたそうです。女、子供も含め、ここには今も人骨がたくさん埋まっているそうです。。。
天主台跡にもピンクのサルスベリが咲いていました。サルスベリは美しい花です。
櫓台跡(天守台跡)
南島原の夏の景色
夏の海 四郎たちの 夢の跡 (伸弘)
ネッシー発見!!
長崎だからサッシーか!? 笑
正体はコレw
なんだコレ~
原城からの眺め、とてもうつくしいです!
目を瞑ると押し寄せる幕府の軍勢が見え、鬨の声が聞えるようです。
まさに「夢の跡」です
原城本丸跡の石垣
白洲
それでは天草四郎の墓碑と像に行ってみましょう。
動画制作: 村内伸弘(ムラウチドットコム)
天草四郎の墓碑
天草四郎時貞の墓碑
天草四郎
小酉行長の家臣、益田甚兵衛好次の子で、本名益田四郎時貞といい洗礼名はジェロニモとかフランシスコなどといわれています。
比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強したとありますが、詳細は不明です。
島原の乱に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。一揆軍は 88日間この原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の攻撃により終結しました。四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首にされました。
この墓碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものです。
南有馬町教育委員会
あと 100年もすると文字が全部消えてしまいそうですね・・・
後から見た天草四郎の墓碑
写真奥の女性はしゃがんで原城VRの QRコードを読み込んでいます。
原城と QRコード。もし天草四郎も現代に生まれていたら、15歳とかですからスマホを盛んにいじくっているんでしょうか?なんだか感慨深いものがあります。
四郎の墓碑に供えてあったお花
カラフルで華やかです。
誰が置いたのか十字架を持った 3体の像が有明海の方を向いて祈っていました。
島原の乱の犠牲者を弔う十字架
写真左下が四郎の墓碑
続いて天草四郎の像に向かいます。
四郎の像の左側に原城跡と書かれた碑がありました。
昭和32年、島原の乱勃発 320年記念の西岡竹次郎さん(当時の長崎県知事)の碑のようです。読んでみましたが、これは名文です!地元長崎の人々の島原の乱への思いがギッシリと詰まっているすばらしい文章です。僕が文字起こししたので皆さんもぜひお読みください。
徳川幕府のキリスト教徒弾圧。同時に、松倉重政、勝家父子、二代にわたる悪政によって、その日の生活を脅かされた有馬地方の信徒は、天草四郎時貞を盟主として、幕府軍との一戦を決意。天然の要害、原城は、たちまちにして、修羅の地獄と化した。
時は、寛永14年(1637年)12月。幕府の征討将軍板倉内膳正重昌は、諸藩の軍勢を指揮して、総攻撃を加えること実に三回。しかし、信仰に固く結束した、信徒軍の反撃に惨敗、重昌、自らも、戦死した。
思わぬ苦戦に、あせった幕府は、老中松平伊豆の守信綱を急派。陸海両面より、城を包囲。やぐらを組み、地下道を掘り、海上からは軍船の砲撃など、四たびの総攻撃。遂に、信徒軍の、食糧、弾薬ともに尽き果て、二の丸、三の丸、天草丸、本丸と、相次いで落城。主将四郎時貞をはじめ、老若男女、全信徒相抱いて、古城の露と消えた。
これ、寛永15年(1638年)2月28日である。
その数、3万7千有余。
思えば、何ら訓練もない農民たちが、堂々数倍に及ぶ、幕府軍の精鋭と矛を交えること数ヶ月。強大な武力と、権勢に立向かった、その団結と、情熱、信仰の強さ。遂に、悲憤の最期を遂げたとはいえ、この戦乱は、当時の国政の上に、痛烈な警鐘となり、人間の信仰の尊さを、内外に喧伝した。
史家をして、
「苛政に始まり、迫害に終わった。」
と、いわしめた島原の乱。
優美にして堅固。
かつては、日暮城とまで讃えられた原城。
いま、古城のほとりに立って、往時をしのべば、うたた、感慨無量。
信仰に生き抜いた、殉難者の、みたまに対し、限りない敬意と、哀悼の念を禁じえない。
ここに、320年祭を記念して、信徒、幕府両軍戦死者のみたまを慰め、遺跡を、顕彰する次第である。
昭和32年(1957年)5月25日
長崎県知事 西岡竹次郎
信徒、幕府両軍戦死者のみたまを慰め
これもすばらしいですね!
まさにこれぞ長崎です。西岡県知事の精神は高邁です。
天草四郎の像
神童・天草四郎の像
美少年・天草四郎の像
カリスマ・天草四郎の像
救世主・天草四郎の像
信念にもゆる天草四郎 西望作
四郎の像から少し離れた右側にはこんな石碑やお墓もありました。
「島原の乱」の文字
圧政や飢饉をきっかけに島原と天草のキリシタンや農民たちが蜂起した戦(いくさ)を今に伝えています。
戦死者を弔った石碑だと思います
戦死者を弔った墓碑だと思います
左分利九之丞の墓
左分利九之丞の墓の説明文
池尻口門跡
うわーっ!雲仙がうつくし~
右側の一番高い山が「日本で一番新しい山」平成新山です。
大噴火によって日本で最も新しく誕生した山(溶岩ドーム)もなんだかやさしく見えてきます。
駐車場に戻ります。
原城跡の石垣
でも、この場所でキリシタンや農民が 3万7000人も命を落とし、そのすべてが殺され、このエリアにまとめられて折り重ねられるように埋められたなんて思うと、見えている景色のイメージも変わってきます。
ここは青い空と白い雲と緑の木々や草々が美しい観光地ではなく、目を閉じれば 3万7000人のうめき声や叫び声、そしてすすり泣くような泣き声が聞えてくる巨大な墓場なのです。。。。
この城からは多くの人骨や十字架、ロザリオ、メダイなどが出土しています。。。
原城跡は「原城霊園」でもあるのです。。。
破却された石垣
ここにも破却された石垣
破却された石垣の説明文
とにかく当時の幕府は戦後処理で徹底的に、完膚なきまでに原城をぶち壊したようです。
一揆軍は皆殺しとなり、島原のキリシタンの歴史は終わりました。まさに「悲劇の城」です。。。
南無阿弥陀仏。
島原の乱はこのように徳川幕府を震撼させ、日本全体を鎖国へと導きました。そして、残されたキリシタンは密かに信仰を守り「潜伏」していったのです。
(参考)長崎空港にあったパネル
原城跡(はらじょうあと)
キリシタンが「潜伏」し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる「島原・天草一揆」の主戦場跡です。
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