タバコの葉越しの普賢岳&平成新山(溶岩ドーム)と「島原大変」の地すべりによる眉山の山体崩壊
仁田団地第一公園内で「平成3年雲仙普賢岳噴火災害犠牲者追悼之碑」に祈る。島原市長 吉岡庭二郎さんの碑文が感動的!
普賢岳&平成新山
吉祥白天橋から見えた圧倒的な存在感を誇る雲仙火山
眉山(まゆやま)
令和2年(2020年) 6月29日 村内伸弘撮影
せっかくレンタカーを借りているので、車をフルに使い倒します。雲仙火山の麓を縦横無尽に走り回ります。
ちょっと走ると山の形がすぐに変わります。それだけ、僕は普賢岳や平成新山の間近にいるということです。
「島原大変」で山体崩壊した眉山(まゆやま)
曇っているのでかえって不気味です!!
タバコ畑がありました。
タバコ畑越しに見えた普賢岳
タバコ畑と普賢岳。まさに島原半島を代表するシーンです!
雲仙火山の麓にはのどかで牧歌的な光景が広がっていました。
地球史的に見れば、またいつの日にか噴火をするのでしょうが、ここ島原は今は落ち着いて平和に思えます。
島原は実にうつくしい!島原は本当にうるわしい!!
荒涼とした雲仙普賢岳(平成新山)
日本は広い!こんな景色も令和の日本の景色なのです!
吉祥白天橋の上から見えた雄大な光景!!
ここを大火砕流や土石流がつい最近通過していったわけです!!自然の猛威にただただ圧倒されるばかりです。。。
見て下さい!
僕が撮ったパワフルな雲仙火山の姿を!!!!!!
僕はこの火山の前を前にしてしばし立ち尽くしました。
島原の九十九島
寛政4年(1792年)の島原大変で眉山が崩壊した時に出来た島々がこの「九十九島」です。
島鉄バス停留所一覧図
仁田団地第一公園
雲仙普賢岳噴火災害犠牲者追悼之碑
「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれた寛政4年(1792年)の大噴火から 198年ぶりに雲仙普賢岳は噴火活動を開始し、この地に大きな被害をもたらしました。
平成3年雲仙普賢岳噴火災害犠牲者追悼之碑
碑文
平成2年11月17日 198年ぶりに活動を開始した雲仙普賢岳
美しい紅葉に包まれた山頂から一条の白煙をたなびかせ、まるで一幅の絵を想わせる光景を呈しながら、僅か半年後にふる里を焼き尽くすあの大災害をもたらそうとはこのとき誰が予想し得たであろうか。
翌3年6月3日に発生した想像を絶する大火砕流は消防団員をはじめ警察官、外国人火山研究者、報道関係者など 43名の尊い人命を奪い、先祖伝来の山や畑、住み損れた家屋やふる里まですべてを焼き尽くし、また平成5年6月23日の大火砕流でも一命が奪われた。
その後、繰り返し発生した火砕流や土石流、更には降灰等により被害が拡大し、全市的にかつてない大きな損害を受けまさに島原市の存亡を懸けた災害との斗い(闘い)を余儀なくされた。
ここに市民の生命と財産を守るため身を挺し火山のメカニズム解明に命を懸け、報道の使命に情熱を燃やしながらも志半ばに無念の犠牲となられた四十四柱の御魂に哀悼の誠を捧げるとともに、とこしえにやすらかなることを祈念し、併せて島原市の復興と発展を誓い、更には、この厳然たる自然の営みと史実を末尽く後世に伝えるため、全市民の総意を刻し、この追悼碑を建立する。
平成7年6月3日
島原市長 吉岡庭二郎
天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑 平成7年11月10日
上皇さま、上皇后さまがこちらにお成りになっているようです
巨大な地すべりがつくった景観
1792年5月21日に発生した眉山(まゆやま)の崩壊と、それに伴う土砂(岩屑なだれ堆積物)の分布範囲。
巨大な地すべりがつくった景観
1792年(寛政4年)5月21日夜8時過ぎ、火山活動に伴う地震によって、眉山の南部で巨大な地すべりが発生しました。大量の土砂が有明海に流れ込んだために津波が発生し、沿岸を襲いました。市街地に点在する大小の丘は「流れ山」と呼ばれ、大規模な地すべりがつくる典型的な地形です。約15000人が犠牲となり、「島原大変・肥後迷惑」という言葉で言い伝えられる大災害をもたらした地すべりは、その発生からわずか 3分ほどで終了した、と推定されています。
地すべりに伴う土砂は、島原市の南部を広く覆いました。土砂の流入により、海は最大で 750m近くも埋め立てられ、海にはたくさんの小島(九十九島)ができました。新しく陸地になった場所には、現在、人々の生活を支える多くの建物や道路、ホテル、港、駅などが建てられています。
仁田団地第一公園から眉山(まゆやま)の山体崩壊も観察しました。
眉山(まゆやま)の山体崩壊
1792年(寛政4年)5月21日、城下町島原の西に位置する眉山は、直下型地震を契機に大崩壊を起こしました。崩壊土砂は一気に有明海に突入して、高さ10mを超える津波を引き起こすとともに、海を埋め立て、「流れ山」と呼ばれる独特の景観をつくりました。
島原大変(200年前の惨事)
200年前の大災害
「火砕流」という言葉を一躍有名にした今回の普賢岳噴火災害、しかし島原市はこれに上回る大災害を過去に被っていたのです。今から約200年前の寛政4年(1792年)に起きた「島原大変」がこれで、我が国火山災害史上最大の稀にみる悲劇でした。
眉山大崩壊
この時は、まず体に感じる地震が続き、さらに普賢岳からの噴煙が上がり、溶岩流や火山ガスの噴出も見られました。激しい地震の連続に、城下の人たちは不安な日々を暮らしましたが、次第に収まりかけたかにみえた寛政4年旧暦4月1日(西暦5月21日)、大音響とともに襲った大地震によって、城下町の背後にそびえる眉山が突如崩壊、3億立方メートルを超える土砂が人家や田畑を埋め尽くすとともに、有明海へ向かって崩れ落ちました。
「島原大変肥後迷惑」
この衝撃によって巨大な津波が発生、対岸の肥後・天草(熊本県)へ襲いかかりました。さらに返し波が島原半島の沿岸18か町村へ再度来襲して、広域災害の様相を呈しました。津波による被害を含む死者約1万5千人は、未だに記録に残る最大の火山災害です。
島原外港に点在する九十九島(つくもじま)の奇観は、この時海に流れ込んだ土砂の跡です。島原市ホームページより引用
崩壊を起こした部分が大きくえぐられているのが見えます。
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