侍 近藤長次郎「おまん、命がけじゃないぜよ」。。。長崎・晧台寺の近藤昶次郎の墓に墓参り
激動する幕末を生きた昶次郎(ちょうじろう)。ここに眠る。饅頭屋長次郎の墓碑に手を合わせました。そして、みごとに転びました。
悲劇的な最期を遂げた侍長次郎(近藤長次郎)
寺町で一番古いお寺 晧台寺(皓臺寺)
近藤長次郎の墓への行き方
小曽根家の墓
龍馬筆「梅花書屋氏墓」 近藤長次郎の墓碑
ここで転びました=頭から真っ逆さまに転落w
背中が破れた服
平成31年(2019年)3月3日 村内伸弘撮影
今日は午前中に近藤長次郎自刀の地「小曽根邸跡」にお参りしました。そして、午後は長次郎のお墓がある寺町の晧台寺(こうたいじ/皓臺寺)に向かいます。
晧台寺 墓地地図
17番が小曽根家墓地(商家)、近藤昶次郎墓碑(亀山隊員)と書かれています
長崎三大寺のひとつ、晧台寺(こうたいじ)
晧台寺
当寺の小曽根家墓所内には、亀山社中の近藤長次郎と海援隊士・小曽根英四郎が葬られています。近藤長次郎は、坂本龍馬が組織した亀山社中の一員として、慶応元年(1865年)、長州藩のための軍艦・武器購入に活躍しましたが、隊規違反の罪を問われて翌2年1月14日に小曽根邸内で切腹しました。碑銘「梅花書屋氏墓」は、龍馬筆とも言われています。また、小曽根英四郎(1841年~1890年)は長崎商人・小曽根乾堂の弟で、龍馬の活動に支援を惜しまず、海援隊の簿籌官(会計官)としても活躍しました。
長次郎のお墓までのルートを詳しく紹介してくれている案内もありました
近藤長次郎
密航計画が露見して切腹。侍となった長次郎!!
それでは長次郎のお墓に向かいます
総門(勅額門)
大仏殿(華厳閣)に向かう道、紅梅が見事です!
大仏殿(華厳閣)。東皐心越書の「常寂光」の大額が見えます
椿の赤い花に思わず目を奪われました!
晧台寺の椿
これからまさに咲かんとしている赤い椿の花
鮮烈な赤です!
晧台寺境内の仏像
山門(山王門)
本堂(万徳寺)
本堂の前にはなんと幼稚園がありました!
晧台寺幼稚園
お寺の中の幼稚園!
子供たちにとってとてもすばらしい環境ですっ
近藤昶次郎の標
激動する幕末を生きた近藤昶次郎(長次郎/ちょうじろう)。ここに眠る。
そのまなざしは凜々しく、維新を想った。
たった一枚のポスターですが昶次郎の人生が見事に掲載されていました!!
皆さん、ぜひジックリ読んでみて下さい!
近藤昶次郎の標
激動する幕末を生きた昶次郎。ここに眠る。
そのまなざしは凜々しく、維新を想った。
近藤昶次郎(長次郎/ちょうじろう)
天保9年(1838年)3月7日~慶応2年(1866年)1月24日
幕末の激動の中、坂本龍馬の片腕として、薩長同盟の成立に貢献した近藤昶次郎(変名・上杉宗次郎)は、現在の高知市上町で餅菓子商を営む大里屋、伝次(父)・鹿(母)の長子として生まれる。
家業が饅頭屋だったことから、饅頭屋昶次郎と呼ばれた。
17歳の頃、叔父・門田兼五郎の紹介で、画人としてだけではなく、西洋学も好む新知識人として知られた河田小龍に入門。安政元年(1854年)、坂本龍馬も小龍を訪ねたと言われており、この頃から二人の交友が始まったとされる、龍馬20歳、昶次郎17歳。それから甲藤市三郎・岩崎弥太郎に師事する。
安政6年(1859年)、江戸で安積艮斎について学ぶ。(安積艮斎の門人には、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎などがいる。艮斎は「言志四録」を著した佐藤一斎の門下)
文久2年(1862)12月、勝海舟の門下生となる。苗字帯刀を許され、近藤昶次郎と称するようになる。手塚玄海や高島秋帆について洋学・砲術学を学び文久3年(1863年)、神戸海軍操練所の設立と共に神戸にて、勝海舟や坂本龍馬から航海術など指導を受けた。また勝海舟の塾に出入りしていたお徳と結婚し、翌年7月には長男・百太郎が誕生する。
神戸海軍操練所の閉鎖に伴い、長崎に移り慶応元年(1865年)、貿易結社「亀山社中」を設立。同年、薩摩藩名義で英国商人グラバーから武器や軍艦「ユニオン号」を購入し長州藩に供給した。慶応2年(1866年)1月、昶次郎が 29歳の時、隊士の沢村惣之丞らに隊規違反の罪を問われて小曽根邸内(現在の万才町)で切腹したとされている。
近藤昶次郎の墓は、晧臺寺法堂裏側の階段を上った右手にある小曾根家墓地内にある。墓碑の「梅花書屋氏墓」の文字は龍馬の筆とも言われている。
昶次郎が切腹した日は 1月14日とされているが、晧臺寺の過去 1月24日「土佐人近藤昶次郎有故称薩州上杉宗治郎没年廿九」、戒名は「謙外宗信居士」と記されている。
悲劇です。。。本当に悲劇です。。。
だからこそ、昶次郎の遺志を僕たちは継がなければなりません!!
勝海舟、坂本龍馬 故縁の地
小曽根邸の跡
小曽根家は幕末から明治の長崎を代表する豪商で、幕末期、六左衛門は福井藩の用達(藩に出入りして品物を納める商人)を勤めました。安政6年(1859年)、大浦に居留地が造成されるのと並行して、六左衛門とその子・栄(乾堂)が隣接地を造成し、その一部は現在でも小曽根町と呼ばれています。栄はその小曽根町に邸宅を構え、この地には栄の弟、英四郎が留まりました。栄は篆刻(木・石などに印を彫ること)や書画を得意とした文人で、勝海舟や坂本龍馬らとも親交があり、龍馬が組織した亀山社中を援助しました。慶応2年(1866年)、龍馬の同志、近藤昶次郎はこの地にあった邸宅内の梅花書屋で切腹。墓碑は晧台寺(長崎市寺町)小曽根家墓地内にあります。
午前中に訪れた小曽根邸の跡にも長次郎は小曽根屋敷で自刃したと書かれていました。「龍馬伝」でも涙無しでは見られないシーンでした。。。合掌。
この長い階段の途中に長次郎のお墓があるはずです。
雨に濡れてるし、長いし、結構上るの大変そうですが、上らないと長次郎のお墓にお参りできないので上ります!
さっすが長崎、洋式砲術の開拓者、航海術の開拓者、フランス学の開拓者などのお墓もあるようです
小曽根家墓地
小曽根家のお墓
長崎の豪商のお墓です。この中に長次郎も眠っています。
にしても、この階段長いです!まだ上に続いています 笑
階段が長い分だけ、眺めがいいです!
それではお参りします
近藤長次郎の墓
近藤長次郎
天保9年(1838年)~慶応2年(1866年)
土佐高知城下の町人出身で絵師河田小龍に学びました。江戸で勝海舟の門人となり、航海術を修め、慶応元年(1865年)の亀山社中結成に参加。優秀な人材で「龍馬の片腕」と呼ばれました。
この年、薩摩藩の名義を借りての長州藩への軍艦・武器購入に尽力。慶応2年(1866年)1月に薩摩藩の援助での英国留学を秘密裏に計画したが、他のメンバーに露見し、単独行動を責められて小曽根屋敷内で自刃しました。
坂本龍馬の筆による墓碑「梅花書屋氏墓」
慶応2年正月14日本博多町小曽根邸で自刃した土佐藩士近藤昶次郎の墓標は坂本竜馬の筆により晧台寺後山に建てられたがその荒廃を恐れ有志の協力を得て当処に移し併せて同墓域内にあった津藩士服部源蔵の墓碑をも修覆を加えた
昭和43年4月28日 親和銀行建立
※親和銀行=長崎県佐世保市の地銀(地方銀行)
墓地内から出て、上から撮っています
僕一人です。他に誰もいません。
長崎の街がとてもよく見えます。
サムライ長次郎のお墓にふさわしい景色です。
この後、悲劇は起きた。。。。
ツルーーン!
滑った~~
ゴロンゴロンゴロン。。。
空が見えて、僕のカラダが雨で濡れた石段を転がり落ちていきました。
とっさに手すりをつかまえようとしましたが、ダメでした。
後ろ向きで派手に転がり落ちました(笑)
久しぶりに階段から落ちました。
頭を打たなかったのが不幸中の幸いです。重い灯籠や墓石が崩れて下敷きになることもなかったです。
上着の背中はメチャクチャ破れました。
滑りそうだなと思っていた矢先にツルンと滑っちゃいました。
事件現場
ツルーン!写真中央(手すりの向こう側の石段)から写真右下に向かって落ちました 笑
上から見たところ
ここから真っ逆さまに、後ろ向きで僕は落ちていきました(爆笑)
背中だけではなく、脛(すね)にも擦り傷ができてました
※帰りの空港で撮影
たぶん、長次郎が物見遊山で訪れた僕を叱ったんだと思います。
「物見遊山かよ?」って!
「おまん、命がけじゃないぜよ」って怒ったんだと思います。
「行動ぜよ」って僕を叱咤激励してくれたんです。
侍長次郎の意思を継げって、そういうことなんだと感じました。
そうです、転んで良かったんです。
侍長次郎からのメッセージを僕はここ長崎市晧台寺で受け取れたのです!!!!!
せっかくですので、更に上へ上へと上っていきます。
晧台寺の上には一体何があるのでしょうか?
市指定史跡 高島家墓地
歴史しか感じません。雨に濡れて、しっとりとたたずむ墓石の数々
長崎は深遠です
薩摩墓
西南の役(西南戦争)で戦死した薩摩藩士のお墓
階段はまだまだ上へ上へと続きます
また滑らないように一歩一歩気をつけて歩きます
上から下りてきた人が通り過ぎていきました。お互いに「気をつけてゆっくり」とか「滑らないようにね」とか声を掛け合いましたw
唐通事平井家の墓
松姫稲荷神社
なんと晧台寺の墓地を上へ上へと歩いていったら、風頭公園に出ちゃいました!
晧台寺と風頭公園ってつながっていたんです。逆にいうと、風頭公園から晧台寺にも下っていけるということなんです。
風頭公園
風頭公園展望台
昨日来たばっかなんですが、もう一度風頭公園から長崎市内を望みます。
昨日とは別のルートで風頭公園から "下界"に下ります
うつくしい長崎の風景
すばらしい長崎の景色
最後に昨日、長崎凧資料館 (小川ハタ店)で見つけた伊藤博文の文章です
詰腹切った近藤昶一郎(長次郎)
坂本龍馬伝に、乙丑丸購入の件は土佐藩士海援隊近藤昶一郎(長次郎)の提唱に発したものとあるというが、それは少し違っている。近藤昶一郎は、上杉宗次郎と変名していた者で、これは馬関の予(伊藤博文)のところへも来て、始終泊ったりしていた。なかなか才物で春嶽(松平春嶽)などにも愛されていた。小松帯刀などにも愛されていた人だが、とうとう洋行するということになった。
その頃は、一人で洋行するということは出来ぬ。長州のほうで軍艦を買おうといつと、薩摩のほうと掛け合ったりしなければならぬ。また薩摩の名義で買い入れなければならぬというようなことがあるので、そんなことの周旋をしていた。この人のことは井上にも聞いてみぬとわからぬ。しかし、この者の口から出て買うことになったというのではない。いろいろ周旋はしていたが、長崎にいるガラパなどが尽力したのだ。
小松帯刀が、この男は後来役に立つ男だといって、いくらか金を出して洋行させることにした。それを他の海援隊の奴が聞いて、怪しからぬといって切腹させてしまった。その前日なども一緒に酒などを飲んでいたが、翌日になって、昨夜腹を切らしてしまったというような話だった。気の毒なことをした。これが一番役に立つ男だった。
註
乙丑丸とは、慶応元年、幕府の長州再征伐に備うため、長藩では、同年七、八月の交、英船ユニオン号を、薩摩の手を通じて買い入れ、これが回送を浪士組の海援隊に托した。これがために長と薩と海援隊との行き違いが生じた。近藤はその海援隊の一人である。
「龍馬の片腕」近藤長次郎 1838-1866
亀山社中記念館
饅頭屋長次郎よ!
サムライ長次郎よ!
永遠に!!
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